天国の芝生  ケネス・ワプニック Ph.D.

The lawns of Heaven
Youtube
https://www.youtube.com/watch?v=awLSi_j1_Q4

コースにおける非常に美しいシンボルです。実際、コースでは2回、そして「祈りの歌」で2回だけ登場します。それは「天国の芝生」(T-31.VIII.9:3; W-pI.194.1:3; S-1.in.3:3; S-1.V.4:2-3)というフレーズで、実際に今からそのフレーズが使われている4つの箇所を読み上げたいと思います。

それは実相(real world)にいることの象徴です。私たちが到達する場所であり、世界を超越し、世界そのものは変わらないので醜いままですが、憎しみではなく愛を選んだ時に内側に宿る美しさです。その美しさを今度は広げ、私たちの周り全てに見るのです。それが「天国の芝生」であり、「天国の門」はそのすぐ先にあります。

このフレーズが登場する4つの箇所を読み上げましょう。最初はテキストの最後にあります。これはイエスの最後のビジョンの一部です(ご存知の方も多いでしょう)。テキストを締めくくる方法であり、非常に感動的で美しいので、その一部だけを読み上げます。第9段落です。

T-31.VIII.9:1-3
私たちがこの世界を歩み、神の贈り物を自分たちのものとして再び認識できる新たなる状況を自覚する機会が、こんなにも多く見出せることを喜ぼう!
このようにして、地獄の痕跡も、 密かな罪や隠された憎しみも、全て消え去るだろう。 そして、それらが隠していた麗しさの全てが、天国の芝生のように私たちの眼前に広がり、、キリストが現れる以前に歩んでいた茨の道から 私たちを引き上げ、遥かなる高みへと運んでくれる。
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これはシェリーが表現していることと非常によく似ています。「茨の道」は「荒廃の都」や「死の都」であり、彼は私たちにそこから抜け出すように求めています。次に、ワークブックのレッスン194を見てください。最初の段落です。レッスンは「私は未来を神の手にゆだねる」です。

これは次のように始まります。

W-pI.194.1:1-3
今日の主題概念は、 すみやかな救済へ向けてもう一歩を踏み出す。それは実に大きな一歩である! この一歩が跨ぐ距離は、あなたを天国の住む手前まで連れていくほどに大きい。 そこではゴールが間近に見え、障害物は後方に過ぎ去っている。 今やあなたは天国の門の手前であなたを歓迎する緑の芝生へと足を踏み入れた。 それは神による最後の一歩を確信して待つしずかな平安の場所である。
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私たちは今、地球からどれだけ遠くまで進んでいるのでしょう! 
私たちはどれだけ目標に近づいているのでしょう!
まだ追求されるべき旅はどれほど短いのでしょう!
これは、イエスが私たちに「頑張れ」と励まし、私たちが本当に遠くまで旅をしてきたこと、そして終わりが目前にあることを教えてくれる箇所の一つです(ワークブックにはこのような箇所がたくさんあります)。

もちろん、彼は時間を信じていないので、彼の時間の見方は私たちとは全く異なることを覚えておかなければなりません。なぜなら、学習者がレッスン194にいるからといって、必ずしも「天国の芝生」が彼の視野に入っているとは限らないからです。しかし、これは私たちが進んでいる旅であり、その終わりは非常に美しく素晴らしいものであり、それこそが、私たちのエゴと向き合い、特別な人間関係を異なる視点で見つめ、憎しみと罪悪感と殺人と死という恐ろしい思考システムに惑わされないことの困難と苦労に見合う価値があるのだという感覚を与えてくれます。その先に、聖霊の正しい思考システムという別の思考システムがあり、その思考システムの頂点に、天国の芝生というイメージがあり、その先にはもちろん天国そのものがあります。

もう2つの箇所は(先ほど述べたように)「祈りの歌」という小冊子にあります。最初は冒頭にあります。

S-1.in.3
聖なる神の声を、あなた見ている夢を手放しなさい。 神が創造したままのあなたとして立ち上がり、 偶像を捨てて神を思い出しなさい。 祈りが、今あなたを支えるだろう。そして、わきあがる歌と共にあなたが心を神に向ける時、祈りがあなたを祝福するだろう。 その歌は、高みから更なる高みへと登って行き、ついには高きも低きもどちらも消え去るところへと達するだろう。
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あなたの目標への信仰は成長し、あなたを支え、天国の芝生と平和の門へと続く、輝く階段を上らせます。なぜなら、これが祈りであり、ここに救済があるからです。これが道です。それはあなたへの神の贈り物です。

そして最後は、第1章の終わりにあります。実際、その最後の部分です。第1章は祈りについてであり、赦しと癒しに関する章と非常によく似ており、旅を描いており、「祈りの歌」全体で使用されているイメージは「階梯(はしご)」です。つまり、これは基本的に、これで階梯(はしご)は終わりです。 なぜなら、もはや学習は必要ないからです。そして、「これ」とは、前の段落を指しており、そこで私たちは兄弟に「私はあなたなしでは行くことができません。なぜなら、あなたは私の一部だからです」(S-1.V.3:9)と言っています。そして、それが、私たちと私たちの世界の他のすべての人が同じであり、私たちは実際にはるかに大きな心の一部であるということを認識した時の、天国の完全な一体性の美しい反映です。

S-1.V.4
これと共に階梯は終わる。これ以上学びは必要ないからである。 今、あなたは天国の門の前に立ち、あなたの兄弟もそこであなたの傍らに立っている。 芝生は深々として静かである。ここでは、あなたが来るべき時の為に約束されていた場所が、長い間あなたを待っていた。ここで時間は永遠に終わる。 この門で、永遠そのものが、あなたと一つにつながるだろう。祈りは本来それが意図されていたものとなった。 あなたが自分の中のキリストを認識したからである。
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そして、あなたが「自分の中のキリスト」を認識した時、それはもちろん、あなたが神の高度な教師になるときに起こることですが、あなたはまた、同じキリストが他のすべての人の中にもいることを認識します。そして、もちろん、私たちが何度も強調する重要な概念は、それがすべての人の中にあるということです。

それは一部の人々の中にいることはできません。少数を除いてすべての人の中にいることもできません。それはすべての人の中になければならなく、そうでなければ、誰にもありません。 私たちが皆、同じエゴと特別さと憎しみの同じ思考システムを共有しているように、私たちはまた、修正の同じ思考システムを共有しており、究極の修正は、神が私たちを創造した時の姿を思い出すことです。それが、神の教師、高度な神の教師になるということの意味です。

数回(3回)、ヘレンは経験をしました。彼女が最初に私に話してくれた時、それを夢として語ってくれたのを覚えています。夢として起こったのだと思いますが、起きている時にも起こったのだと思います。彼女は自分自身を自分として見ていませんでした。彼女は司祭のような白いガウンを着て、門の前に立っており、そこを歩いてくる人にこう言っていました。「キリストの名において、平和にこの門を通りなさい。」

門のすぐ手前には、天国の芝生があり、彼女はそこで再び、この—まあ、それは本当に彼女の真の姿であり、この世にはほとんどいない司祭として、人々が平和にこの門を通り抜けるのを歓迎していました。そして、その向こう側はもちろん天国です。

シェリー*の詩で重要なのは、「荒廃の都」を通り抜け、「エゴの思考システム」を通り抜けるまでは、その「笑う花の光」にはなれないという考えだと思います。
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*訳注 パーシー・ビッシュ・シェリー(Percy Bysshe Shelley、1792年8月4日 - 1822年7月8日)
イギリス・ロマン派を代表する詩人の一人。シェリーは、自由の精神と理想美をたたえた叙情詩を書き、急進的な革命思想と純粋な抒情性を合わせ持つ詩人として知らる。

Adonais 49
Go thou to Rome,—at once the Paradise,
The grave, the city, and the wilderness;
And where its wrecks like shattered mountains rise,
And flowering weeds, and fragrant copses dress
The bones of Desolation’s nakedness
Pass, till the Spirit of the spot shall lead
Thy footsteps to a slope of green access
Where, like an infant’s smile, over the dead,
A light of laughing flowers along the grass is spread.

49
ローマへ行け、――そこは楽園、墓場、都市、そして荒野である。
崩れ落ちた山々のような残骸が聳え立ち、
花を咲かせた雑草と香り高い雑木林が荒廃のむき出しの骨を飾る。
その場所の聖霊が汝の足を緑の坂道へと導くまで、そこを通り抜けよ。
そこには、幼児の微笑みのように、死者の上に、草に沿って笑う花の光が広がっている。

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愛の経験、そしてここにいるすべての人が同じであること、同じ自我、同じ聖霊、同じ選択する心の力を持っていること(ただ目で見るだけでなく、見て知ること)の経験は(この幻想世界では)できません。 その認識、より正確にはビジョンと呼ばれるものを得ることはできません。
それがコースでの「ビジョン」の使われ方であり、「真の知覚」という言葉です。
それが、この幻想の世界で私たちが実相(reality)に近づくことができるものです。実相(reality)は完全な一体性であり、そこには差別化も個性もなく、もちろん独自性や特別性(ここではまったく知られていない)もありません。 ある箇所では「一体として結合された一体性」(T-25.I.7:1b)と呼ばれていますが、ここで(この幻想世界で)それを知る方法はありません。
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*訳注:T-25.I.7:1
こうしたことはすべて、あたかも時間と場所を別々のものであるかのように扱っている。 それは、あなたが自分の一部が分離していると考えている間は、一なるものとして繋がっている一体性という概念は無意味だからである。 明らかなことは、これほどまでに分裂した心は、全てのものをそれ自体の中で結びつける一体性を教える教師には絶対になれないということである。 したがって、この心の中にあって、すべてのものを結びつける存在が、その心の教師とならなければならない。 だが、その存在は、この心が自分が存在していると考えている状況のなかで、この心に理解できる言語を使用しなければならない。そしてその存在は、幻想を真理の元へ運ぶためにすべての学びを活用しなければならず、あなたの本性についての虚偽の考えのすべてを取り上げてそれらを超え、まさにそれらを超越した真理へと、あなたを導いて行かなければならない。 このすべては、簡潔に、次のように要約することができる。 

同一のものが異なっていることはあり得ず、 一つであるものには分離した部分はありえない。 
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しかし、一体として結合された一体性の反映(the reflection of that Oneness)、つまり私たち一人ひとりがひとり子の一部であることを知ることはできます。天国のキリストとしてだけでなく、この世界でも、分裂している同じ心を持っていることを知ることができます。それがビジョンなのですが、愛の経験を持ちながら自我を持つことはできません。第 24 章の「特別性の背信」に、イエスが、特別さの声に耳を傾けている限り、聖霊の声や聖霊の歌、聖霊の旋律を聞くことは不可能であると語る非常に力強いセクションがあります (T-24.II.5:1-2)。

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*訳注: T-24.II.5:1-2
あなたは自分の特別性を防衛することができるが、その傍らに神を代弁する声を聞くことはない。 両者は異なる言語で語り、異なったものたちの耳に届くものである。
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そして、実際、特別さの声の目的は、愛の声と一体性の声をかき消すことです。ですから、心の中に特別さがある限り、どんな経験も疑うべきです。繰り返しますが、それが有効でも本物でもないというわけではありませんが、経験自体が自我を手放すのに役立たないのであれば、あまり価値がありません。愛の経験、赦しの経験、真のつながりと共有の経験の価値は、それがあなたの中の光の灯台となり、特別さや分離、憎しみ、罪悪感、特別な関心などといった暗い考えをすべてそこに持ち込むことです。つまり、それが価値なのです。
繰り返しますが、雑草の中でまだはしゃぎ回って、本当は死の雑草や憎しみの雑草なのに、それが香りのよい花だと信じようとしているなら、天国の芝生や平和の門という場所にたどり着くことはできません。優れた教師はそれらを乗り越え、その経験への道は自我を通してであることを知っています。
テキストに語られているように、聖霊は私たちとともに恐怖の輪を通り抜け、神は反対側にいます (T-18.IX.4:1)

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*訳注:T-18.IX.4
恐れの環は、肉体に見えるレベルのすぐ下にあり、それがこの世界を支える土台のすべてであるように見えている。 ここに全ての幻想がある。全ての歪んだ想念や狂気の攻撃、そして激怒や復讐や裏切りが、ここにある。 これらが作り出されたのは、罪悪をしかるべきところに保持し、それにより、罪悪から世界が立ち現われ現れて、罪悪を隠れたままにしておけるようにする為だった。罪悪の影は表層にまで届き、そのもっとも外面的な現れをも、闇の中に保持し、そこに絶望と孤独をもたらし、そこを喜びなき場所として続ける。 しかし罪悪の強烈さはいくつもの分厚い被いで覆われており、それを隠しておくために作り出されたものから離しておかれる。肉体はそれを見ることができない。 なぜなら肉体は、それを保護するためにそれらから 生じたものだからであり、それを見ないままにしておくことで、それが保護されるからである。 肉体の目は決してそれを見ることはない。だが肉眼はそれが指令するものを見る。 
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