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アンドレ青いレモン

自分の日々の記録として。
ときどき顔出しのお仕事情報なども。

プロフ写真はだいぶ前のものですが気に入ってるので使い続けます。

※記事更新にあたってのいいわけ※
思考のスクラップブック兼メモ帳みたいな感じなので、いつにも増して読みづらくて独りよがりです。あしからず……



相手との価値観の大幅な違いをすり合わせる作業をするとき、
自分の実力と志ではあまりに足りなすぎて打ちのめされることが多い。

お互いに自分の価値観が正義だと思い込んで
相手を変えようとすれば不幸なことになる。
これはとっても起こりがち。

お互いが柔軟に相手の話を聞いて、ためしてみられる心の余裕があれば、
イイとこ取りで1人じゃ行けない新しいほうへ向かえたりして、とっても楽しいことになる。
素晴らしくて忘れられない体験になる。しかしごくごく稀なこと。

すり合わせようという場のはずなのに、
そのための対話とか試行錯誤を始めることすら難しいな?なぜだ?ってこともある。
とはいえ大人の事情で同じ場に居ざるを得なくて、
たとえば相手の立場が上だったりしたとしても、
相手に合わせて黒いものを白いと言い続けるのってやっぱり魂の削られ方が半端じゃないので
続けるにも限界がある。

ただこれは、もし辿り着きたい先が自分の中にすごくはっきり描けていれば、
そのあたりは目的達成にともなう雑事として、辛抱できる限界が広がるから、
志という言葉を使ったのはそういうニュアンス。
(でも、そもそもふつうに生きるだけならかかわらずに生きれば問題ないし、根本的な価値観が違うときは自分が壊れる前にさっさと離れるのも極当たり前のこととは思う)

で、対話とかができないことについて考えてみたときに、「寛容」って言葉が浮かぶ。
人はその人それぞれが無意識に作る物語の中に生きていて、
たとえ寛容とか受け入れることとかを信条にしている人でも、
結局自分のよしとするものにのみ寛容になれてるだけな気がする。選択的寛容ってやつ。

しかもそれによって「寛容な自分」「意見を聞き入れる自分」「寄り添える自分」という自己認識ができてしまって、
じつは相手とか状況によってほぼ無意識に選別してめちゃくちゃに不寛容になっちゃっていることに気づいてない。

もしくは自分の物語に沿って「この不寛容は不寛容ではない」っていう謎理論を無理やり作ってしまう。
この理論づくりが上手い人は自分すらも目くらましできてしまうのである意味幸せなのかもしんないけどタチが悪い。

差別云々の問題とかもまさにこれだなと思う。
指摘されたことに対して
そんなつもりじゃない、これは差別じゃない
みたいな謎理論を組み立てるってことは、
誰もが差別してしまう可能性があるっていう大前提を持ててないわけで。

差別や不寛容を、「いけないこと」としてただ排除したり、やってしまったら人として終わり!みたいな絶対にありえない行為として自分と距離を置こうとすることで、
逆にやってしまったときに認めて改めることができなくなってしまう。
謎理論で武装すると対話もできなくなる。

もちろん差別はないほうがいいし、
不寛容もみんなの生きづらさを増すから、ないほうがいい。

これからも時間が前に進んでいく限り、
ちょっと前まで差別だとされていなかった事柄が
差別として捉えられるようになることが無限に出てくるわけで、
「してません」「受け入れてます」でシャッターをおろさずに、
素直にごめんなさいと対話ができるようになりたいものです。

自分の物語や無意識謎理論を手放すのは、
己の至らなさ未熟さ無知さを正面から見なくちゃならなくてかなりつらいことだけど、
長年かけて謎理論武装し続けて歳を重ねている人に触れたりすると
怖や怖や、我がふり直そ、と思う。

昔の自分と比べて寛容になれているな、と思っている「当社比寛容」の人(とてもいいことだけど)とか、
いわゆるマジョリティではない分野で活動してたり、
「寛容な人」という立場で扱われることが多い「ベテラン寛容」の人とかが割と陥りやすい罠な印象。
(ポッドキャストの超相対性理論でこれのもっとちゃんとした内容が語られていたはず)

自分には差別感情がある
と認識しているほうが健全なんだろな。
醜い感情を抱かない人なんていないだろうし、間違えない人もいない。
そもそも正解なんておそらくないだろうし。
差別感情があったとして、それがもとでそのつもりなく人にぶつけてしまったときに対話とか学ぶことができるかどうか。
(健全という表現がそもそも健全じゃない気がしてるけどそれはまあ今度考えよう)

これもよく感じることだけれど、
どんな分野でもゴールなんてなくて、極めれば極めるだけ先があるから、
人間国宝とか達人級の人とか、"ものスゴい人"のほうが「自分まだまだなんで」を心から思ってる気がして。真理の扉的なものに近ければ近いほどもっともっとってなるんだろうなと。
それをちょこっと齧ったくらいの人が「自分寛容なんで」ってつもりになったらそりゃおかしくもなるわけで。
自負や自覚と慢心やおごりのちがいというか。
メタ認知ができてるかどうか?みたいなこと。

謙遜が美徳とか言いたいわけではなく、むしろポジティブに私これができます!って表明できるのは素晴らしいことだと思うから、
人の目を気にした結果とかでなく、心から「自分まだまだなんで」を言えるようになったらかっこいいなと思う。

話はさらにずれるけど、着物警察とか、にわかな人々や初心者に厳しくなっちゃうのって、
自分が未熟である裏返しな気がする。
真理の扉に近い達人の人ほど「新しいやり方だ、少し学ばせてもらおう」ってなる探究心みたいなものが強い気がする。
ほかの人のことが気になって色々言いたくなるときって自分がうまくいってない時だったりするし。ちょっと違うか。

こういうことをつらつら考えてると、やっぱり人は感情とか感覚に支配される生きものだなぁと思う。
寛容になれるかなれないかってのも、結局「なんか好き」「なんか許せる」みたいなところだったりするし。
だからこそ理性とか論理的であることとかがもてはやされるのかもしれない。

で、そういうのを逆手にとる感じで、
意識的か無意識的かにかかわらず、すごく個人的な「感情に基づいた選択的寛容」を正当化するために、
Bを否定することでAを持ち上げる、みたいな
"感情を覆い隠すために理論でかためる"的なことを巧みにやる人もいて、
それがビジネスになってたりもするから、そういうのには加担したくないなぁと思うと、
ぐるっとまわって自分の感情とか感覚が教えてくれる「なんか好き」「なんかやだ」は大事にしたいと思う。
利用したり人にぶつけたりしない分には。
ふだんからそこを磨いて向き合えていたら、変なことに巻き込まれないお守りになる気がしている。



…と、いま考えていることを記録したくて文字にしてみたけど、どこかで聞いたり読んだりしたようなことばっかりになってしまった。
でもコピペをつなぎ合わせたわけじゃなくて、いちど2022年の私を通って編集されて出てきた内容ってことで、まぁよしとしよう。