そう呼ばれて、ああ、そうだなと、思うようではどうなのか。


それって、自分で納得しているがごとく。ですよね。

なにも呼ばれる必要もないのに。


他人の目には、その動作や、話し方などなどで、そのように判断されたということですからね。

全体のバランスですから、以上にはする必要は無いのです。

気持ちの問題ということも多少はあると思うんですね。

自分で納得してしまうことのないようにありたいものですね。

ある意味、考えなし。のようなものですね。

自己規律というものが有りますが、そういった考え方が明確ではないということですから、ついとか、思いがけずになどと、自己弁護や、言い訳をしない。


美などということは摩訶不思議なものなのですから。

こうこうこうだ。などという形というものがないものの一つですからね。

少なくとも、自分で決めたことくらいは、ちゃんとやらなきゃね。


毎日の積み重ねが肝心。

本物のキレイって、なに??

それを手にいれたいなら、毎日の積み重ねが肝心。

判ってはいても、それができないひとが大部分。

残念ながら、私はそのように思っています。 そうでなければ、もっと、私の前にキレイな人が現れてもいいと思うから。


大袈裟に言えば、そういうこと。



眉の左右が違うのは、お顔は、元々が、アシンメトリーなので、シンメトリーにしようとすることに無理があるんですね。


例えば、眼の位置がすでに違いがあるので、当然、眉の位置も違うことになります。

なので、無理して、同じにしようとすることに無理があるんですね。


もっと、素直にみるといいんです。

全員が眉を削っているということではないでしょうが、たまたまテレビなどの絵を観てのことではありますが、それでも、そのたまたまがそうならば、やはり多いのかなと思ってしまいますね。


正しい情報が発信されることを願っていますが、世間に任せておくと、どんどんと良くない方へいってしまいますからね。



JKなどの眉は、削られているのが多いのです。

興味本位ですから、仕方ないといえば仕方ないんですが。


本来ならば、その興味を持った時に正しい情報がいかなければならないのですが、その術がない事が申し訳ないと思います。

ある意味、世の中、商売ですから、お金にならないような情報などは、見向きもされないというのが常ですからね。


折角、AKBなどが、観られているにも拘らず、観る所の焦点が狂っていれば、なんのことはないのですけれどね。

キレイにメイクしている。 が大勢を占めますが、決して眉は自然なではないのが気になります。 というか、メイクの本質がずれているかなと思います。


つくってのキレイは、それまでのものでしかなく、自然さに欠ける眉では、そのメイクの完成度が判るということなんですね。


特に美眉の条件は、眉頭n部分で決まりますから。

その部分を、どれだけ自然にできるかですから。

その辺の考えがどれだけ持ってもらえるのかですね。

普段の自分のメイクでは自分を表現出来ないのではないかと、思いながらも、じゃあ、どうすればいいのか。 と、思いながらも、ちっとも前へ進めない自分がいて、メイク本などを購入したものの、分かりにくいとか、自分に対しては当てはまらないとかで、結局のところそのまま。


どうしてそうなのかは、難しく考えなくてもいいことも難しく考え、パターンではないものを無理にパターン分けしてしまったこと。

百人の人がいれば、百通りの考え方が有ると、何故考えないのかですね。


基本的な流れはパターンですが、個々人の感性は、きめこむものではないのですから、いろんな角度から見つめて、自分発見をすればいいんです。


失敗の積み重ねの中に、自分はというものが有りますから、そこにたどり着けるまでは、努力なんですね。

その結果は、オリジナルの自分というものに達することができます。 そして、そののちは、更なる努力ですね。


自分のことが解っているなら、簡単なんですが、自分を知らない場合は、それこそ、難しい話。


そう、中途がないんですね。 演出とは客観的に観ることができて初めて出来ることなんですから。


なにを、どのくらい、どうすればいいのかが判る。

そういった感じっていうことですから、直感だけではなく、理屈を成立させることも要るんですね。


キレイでいることの意味は、自分のみならず、周りの雰囲気をおだやかにし、なごませることすらできるんですね。

そういった役割を担えるなら、自分という意味があるのでは。

ナチュラルな感じのメイクと、そうでない場合とでは、明らかに違うと思えるのに、それを考えずに何故か仮面のようなメイクをするのが当たり前になっているのを見かけるが、年齢に応じてのことだと思います。

しかし、年齢がいけばいくほどメイクの弱点が出てしまうのですから、その辺の考えが欲しいものです。

特に、中年といわれる年代に多くなってしまうんです。

若さではじけたまんまを、そのままに引きずっていないかの検証をせずに、そんなはずじゃない。的なもので表現することが当たり前になっているのでは。


中年といわれる年代になったなら、それこそ、経験があり、知識も有るはずなので、それを生かさなければ意味ない話ですよね。