土曜日の朝。日常とは少し異なる光と影の気配でオスカルは目が覚めた。
「え・・・?ここは?‥‥あ、昨夜は彼と・・・。」昨夜からの怒涛のような展開に火照りが彼女の体を駆け巡る。無意識の行為か、裸の胸を清潔なシーツで隠しながら、ベッド脇の磨き上げられた窓から射し込む陽の光に照れくさそうに手をかざした。
昨晩、アンドレの告白を受け、自分もまた彼への恋心を呼び覚まされたオスカル。公園で交わしたキスは二人の想いに火をつけた。オスカルの心の底に「明日は土曜日だ、休みだし。」という冷静な判断は残ってはいたものの、その他の彼女が通常行動するにあたっての面倒くさいほどの自主規制・・・軽はずみではないか、とか社会的に恥ずかしい行動ではないか、とか親の顔に泥を塗るような行動ではないか、とか・・・はすべて封印し、彼に導かれるまま、公園の奥にひっそりと佇むホテルに入った。
彼女の恋愛経験が少ない事をアンドレは察してくれたのだろうか・・・シャワーを浴びて部屋へ戻ってきたオスカルを待っていたのは、部屋の外を眺めながら待ってくれている彼と、とても低いボリュームで流れるモーツアルト。それは今夜これから始まるであろう彼との睦事に、ときめきと同じくらい”怖さ”を胸に抱いていた彼女の迷い心を、優しく癒してくる。でも、何故モーツアルト?
「シャワー、気持ちよかった?少し暑くなってきたから、さっぱりするだろ。」
「ええ、すごく気持ちよかった…あのね、アンドレ。どうしてモーツアルト?」
「え?ああ、これ?このホテル、珍しい事にCDが数枚置いてあるんだ。それもクラシック。それで
かけてみたけど、いやだったか?」CDを取り出そうとするアンドレをオスカルは急いでとめた。
「違うの、正反対。私モーツアルトがすごく好きで、疲れた時や悩んでいる時は必ず聴くくらい好き。
驚いたのは何故私の好きなモーツアルトをかけてくれていたのかな、って・・。」
「そう言えば・・・そうだね。あれ?君がモーツアルト好きだって俺は思って・・・?さっき飯くってるとき
俺に言った?モーツアルトが好きなのって。」
「言わない…。」
「そっか…不思議だね。小さい頃に出会っていた事と言い、不思議な縁でつながっているのかな?」
アンドレは片目をつぶったが、オスカルは思わず俯いてしまった。
照れくさい。不思議。嬉しい。怖い。
これらすべてがオスカルの心の中で、われもわれもとひしめき合っている。
「おいで。」低い男の声が彼女の顔を上げさせた。ゆるゆると、彼女は彼に近づき指先が触れ合った瞬間、優しいが、強い力でアンドレは彼女を引き寄せた。
彼は艶やかな金髪に顔を埋め、彼女はそうっと目を閉じた。
やはり彼は、彼女が決して男女の睦事に慣れていないことに気づいていた。「愛している」の言葉を囁きながら、彼女の肌を覆うガウンと小さな布を取り去ると、長い指で慈しむようにゆっくりと細かに
彼女の体を愛し始めた。盲目の人間は他の感覚に関してすぐれているというが、アンドレもまた、
まるで盲人のように、普通なら見逃してしまう彼女の敏感な部分を指で、唇で触れていった。
ピクリ…ピクリ…幾度となく体中を駆け巡る電流のような感覚に、オスカルは気を失いそうになる。
「愛しているよ。」の彼の言葉がその度に彼女をこちらの世界に引き戻してくれる。
でも、彼の指が彼女の繊細な部分に辿り着き、指の先で優しく撫でたのち、奥へ入っていこうとしたその時。彼女の体が小刻みに震えた。
彼女は泣いていた…のだ。アンドレは驚いて上体を起こし、彼女に詫びた。
「ごめん、イヤだったのかな?それとも痛みを・・・?」
「違う、違うのアンドレ。私の心はあなたがきてくれることを泣きたいくらい、待ちわびてる。ただ、
体が、私の過去を引きずった体が私の邪魔をしているだけ。だからやめないで。」
アンドレは、彼女が横向きになって体を震わせる姿を少しの間見ていたが、優しく彼女を仰向けにした。髪をなで、彼女の涙に唇をあてると、彼女の体の震えは少しずつ消えていった。
そして、大きな波が押し寄せて、二人はそろって波に打ち上げられた。
「私の話、聞いてくれる?」呼吸がやや整い、ブランケットを肩までかけたオスカルは、アンドレに
首を傾けた。
「君が良ければ・・・。俺は君の事はたくさん知りたいけど、傷つけてまで、知らなくていい。だって。
今の君を僕が勝手に愛してしまったのだから。」
星の瞬きのように眩し気な彼の瞳をまっすぐ見ることはできず、オスカルは彼の肩に前髪を擦り付け、子供の様に男の腕を意味もなくさすりながら、一人語りをはじめた。
「大学を出てラボに入った時、一つ上の先輩がいたの。エリック・カールソンっていう、カールソン・フレグランスの御曹司で、私が働くD社に勉強に来ていたわ。何かと先輩の風当たりが強かった私に優しく接してくれた男性はエリックだけだった。香料の事はもちろん、他の先輩達の理不尽な嫌がらせから私を守ってくれた事で、私はいつの間にか彼が自分にとって運命の人ではないかと思いはじめたの。」救いを求めるように眼差しを向ける彼女に、アンドレはちょっぴり困ったような笑みで返した。
「その状況で、君が彼に心惹かれたのは無理もない事だよ。」
「私は恋愛経験も少なかったけど、彼もまた、私を憎からず思ってくれているという予感はあったの。
ある日、ラボの仕事が夜遅くまでかかってしまい、私は終電を逃してしまった。駅まで送ってくれた彼は、『明日も早いし、泊っていかないか?』って言った。私は彼のその言葉が、同僚として別々に部屋をとるのか、同じ部屋に二人で寝ることを意味するのか判断できなかった。もしも後者だったら、私は彼を受け入れる・・・いえ、抱かれたいと思った。」
二人の肌を照らすのは、ベッド脇のルームランプのみ。まるで懺悔するかのように震えている彼女の肩を、アンドレは子供をあやすようにポンポンと叩いた。
「彼はシングル・ルームを二つとってくれた。安心と少しの落胆を感じながら、私は部屋に入るとシャワーを浴びた。そうしたら、部屋に戻ってランジェリー姿の自分をエリックは待っていたの。私は驚愕したけど、『君を好きだ。』という言葉に、その時は喜びを感じたし、自分からベッドに入っていった。
彼は優しかったわ。私は好きな男性に愛された事で、ちょっぴり幸せな気持ちに浸っていた。
その時、彼の携帯が鳴った。彼は何かを話していたのだけど、スウェーデン語なので私にはわからなくて。電話を切った後で、彼は言った。
『スウェーデンで僕を待つ、婚約者だよ。』
『嘘…!それで私を抱いたの?』
『なぜ?彼女は婚約者。君はフランスでの愛しい人さ。僕は間違っていない。』そして彼は、
すごい力で私をまたベッドの中に引きずり込んだ。自分の胸に唇を這わせる彼に猛烈な
嫌悪感を感じて、私は彼を突き飛ばした。その後、逃げるようにホテルを出た私は、親友に電話をかけて、彼女の住むアパートに泊めてもらったの。翌日、何もなかったようにふるまう彼をみて、私は自分のあの夜の行動を後悔した・・・。それからだわ、私が身も心も恋愛に対して臆病になったのは。」
懺悔をした後のように、オスカルは美しい睫毛をふせた。そんな彼女のちょっぴりくせ毛の前髪を彼はふんわりと上げて、唇をよせた。「‥‥アンドレ・・・。」
「男って身勝手なものだよな。結婚を約束した人がいても、美しい女性が目の前にいたら、抱き寄せたくなってしまう。その気持ちは少しばかり、わからなくもない。でもそれは、君がその女性よりもはるかに美しかったからだろうな~。俺は心配ご無用。だって君よりも美しい人に出会うことなんて、有るわけないから。ふざけて言っているわけじゃない。これくらい軽く受け流さないと、君のガラス細工みたいな心は壊れてしまいそうだもの。もし、その時の事で君の心に少しでもヒビがはいったまんまなら、俺は優秀なガラス職人になりたいな、君の心の。」
「アンドレ、でも私は。」
「恋におびえながらも、君はさっき、俺を受け入れてくれた。大きな波にのまれて、二人で浜辺にうちあげられたじゃないか。それを原点として俺との恋をはじめてほしい。」
ポロポロと大粒の涙を流すオスカルを、アンドレは再び抱き寄せた。さっきとは違い、彼女の体が小刻みに震えることはなく、二人は穏やかな眠りについた。
そうして迎えたホテルでの朝。オスカルがもぞもぞと、椅子の上に置かれた下着を身に付けようとした時、「オスカル、入ってもいい?」という声がドアの外から聞こえた。
「あ、アンドレ?もう…起こしてくれればよかったのに・・・。」下着を身に着けながら、オスカルは答えた。スカートと、ブラウスを身に付け、ドアを開けると、アンドレがコーヒーを二つ手にしていた。
「あと30分でチェック・アウトだそうだ。どこかでブランチでも。」
「ブランチ・・・?」時計を見ると10時半。オスカルは驚いた。
「あんまり綺麗な顔で、気持ちよさそうに眠っていたから、しばし見とれた後、起こさないでおいた。」
「意地悪だな、もうっ。」
彼をげんこつで叩く仕草をした彼女は、素早く彼に抱き留められて、くたりと大人しくなってしまった。
ホテルを出て、公園を突き抜けたところにオープンテラスの明るいカフェがある。そこで二人はブランチをとることにした。とはいえ、昨夜の焼き肉の脂っこさを引き摺っているのか、二人共サラダにトースト、
ゆで卵にカフェオレの軽い食事をとることにした。
運ばれてきたゆで卵をてにとって、アンドレは言った。
「これが、昨日までのオスカル。」
固い殻を指先でなぞる。それから丁寧に殻をむいて、光沢のある卵を彼女に見せた。何の事を‥‥と思って聞いていたオスカルは見る見る赤くなった。
「白くて艶があって、これが今のオスカル。美味しくいただきます。今朝もね。」
いたずら小僧のように笑うと、アンドレは卵をゆっくりと食べた。
もう、なに?こいつ、すごく繊細で大人だと思えばこんな・・・。オスカルはバンバン!と卵の殻をわると、二口で卵を食べた。
二人は顔を見合わせて笑った。サラダとパンを食べ終わり、カフェオレカップを持ちながら、オスカルは
アンドレに言った。
「私の小さな頃の話、してもいい?」
「いいよ。実はいいなずけがいました、なんて話じゃなければ、ね。」
「怒るぞ、こら。私の家はね、両親が何かと忙しくて、私達姉妹は・・・女ばかり6人だけど・・・家政婦さんに育てられたの。家政婦さんっていうより、家庭教師、かな。お菓子作りが上手で、勉強も教えてくれて。そんな人だから母はとても信頼して、娘達のおやつはぜひ手作りのものをってお願いしてた。だから私達姉妹は、高級デパートで売っているお菓子か、彼女の作ってくれるお菓子しか食べれなかった。そんな時、お散歩に連れて行ってくれたその人…セシリアさんって言うのだけど・・・が内緒で食べさせてくれたのが、ルーシー・アイスクリームだったの。私にとっても忘れられない味だったんだ。」
セシリア・・・ごくありふれた名前だけど、小さな頃、母に連れられて行った家に、優しい中年の女の人がいて・・・その人の名もセシリア・・・じゃなかったっけ?
「オスカル、そのセシリアさんって、独身だったの?」
「私は大きくなってから聞いたんだけど、早くにご主人を亡くされて、最初はベビーシッターの女性に娘さんを預けて先生をされていたんですって。そのシッターさんが田舎に帰るので辞めることになって、セシリアさんは私達の面倒を見てくれるようになったみたい。」
「オスカル、多分、そのベビーシッターの女性って、俺の母だと思う・・・。」
二人は運命の不思議なめぐりあわせにしばし顔を見合わせた。