その日、青年ウジェーヌ・ド・ボーワルネは、アランの家を訪ねるべく、パリの下町を歩いていた。
「おうや、ずいぶんと可愛い将校さんだねえ.。」
「その様子じゃ、まだ女も知らないね。」
アランの住む部屋へたどり着くまでどれだけの女達にからかわれた事だろう。僕は義父ボナパルトに彼の住所を教えてもらい、酒屋で買い求めた酒を手土産にようやく彼の部屋のドアをノックすることができた。
あの、地獄絵図のようなエジプト遠征から戻ってすぐ目の当たりにしたのは愚かで愛する母、ジョセフィーヌと義父ボナパルトの離婚騒動だった。結局義父が思い直してくれて、母は夫への貞淑を誓う…という形で落ち着いた。
そのような事があったからだろうか、僕は無性にアラン・ド・ソワソンに会いたくなった。
アッコン城塞で死にそうになってた僕を叱り飛ばしながら助けてくれたアラン。
眉が太く、男臭い風貌の中に時折見せてくれるたまらなく優しい表情に、僕は兄にも似た感情を
アランに寄せているのかもしれない。特に、両親の喧嘩や、それを取り巻く人々の醜い策略を目にしていたからだろう。
義父ナポレオンが深く信頼をおく、勇猛果敢な軍人アランはパリの中でも下町の古い集合住宅の一つに住んでいた。
「俺の両親と妹と暮らした部屋だ。引っ越す気など、ないさ。」
いつだったか義父が、もっと広い屋敷を世話すると言った時、アランがこう言っていたのを思いだした。
ギシギシと軋む階段をのぼって、アランの部屋の前まで来た。
「まあ、いい男だねえ、可愛くて。どうだい、あたいと酒でも飲まないかい?」
隣の部屋の、やたらと派手ななりをした女性がまたしても声をかけてきた。
気を取り直してドアをノックする。トン、トン、トン・・・・。
「誰だ?鍵なんか、かかっちゃいねえよ。」アランの声だ。僕は嬉しくって、でもそうですかと上官の部屋に勝手に上がるわけにいかないので、挨拶をした。
「僕です。ウジェーヌです。あの、将軍にここをきいて訪ねてきました。」
「はあ?ウジェーヌかあ?お前、なんだってこんなボロい家なんか訪ねてくるかね?」
そう言いながらも、ドアを開けてくれたアランは、ごく普段着の木綿の白いシャツで寛いでいた。
「すみません。その…パリに戻ってきて、何だか無性に話したくなって。」そう言って僕は手土産の酒をアランに差し出した。
「はん、変な奴だな。」そう言いながら、アランは座れよ、と椅子をすすめてくれた。
ガタピシする椅子にそうっと座ると、アランは何やら、煮炊きをしていた。僕はちょっとうれしくなった。
だって、あのアランが、泣く子も黙るアランがいそいそと台所仕事をしているんだもの。
古びているけど、軍人らしく整理整頓されている部屋を僕は珍しそうに見回した。
小さな書棚の上にコップに挿した、白い薔薇が飾られていた。
なんだか、そこだけが、とても神聖で、眩しくて、暖かな光を放っているような気がした。
そしてとても、不思議だった。
「ねえ、アラン。綺麗な薔薇だね。」
「うっ・・・・・。しまった。」
「ねえ、何か思い出があるの?アランって意外とロマンチストなんだね。」
「バ、バカ。そんなんじゃねえよ、ただな。」アランは薔薇の花弁を愛おしそうに撫でた。
「忘れちゃいけない、いや、俺にとって忘れられない思い出だな。」
そう言って、アランは僕に、リンゴをホイっと投げてよこし、自分もまた、リンゴを齧りながらポツリポツリと話してくれた。それはとても、胸暖まる話だった。
1789年。初夏、早朝。衛兵隊ベルサイユ支部、司令官室にて。
「おはようアラン。どうした?やたら早いな、今朝は。」
「夜勤明けさ。今引継ぎが終わって、一杯ひっかけて寝るとこよ。それよりお前こそ、何やってんだ?」
偶然司令官室の前を通りかかったアランは、長身のアンドレがいるのを見て、声をかけた。すると、
アンドレの手には、男には似つかわしくない・・・いや、この男にはよく似合っているのかもな・・・白、薄紅、黄色の薔薇が数本、花瓶に生けられて優雅な香りを放っていた。
「うん。オスカルが、いや、隊長が今仮眠中でね。俺だけ馬で屋敷にひとっ走りして薔薇を数本失敬してきたんだ。綺麗だろ?」
こうして微笑んでいるアンドレは、やはり兵舎よりも薔薇の咲き乱れるお屋敷がよく似合うな、とアランはやや、眩しそうに彼を見た。
「全く、貴族様の従僕のお前らしいや。ただな、この男臭くて硝煙くさい兵舎じゃ、ずいぶんと女々しく見えるぜ?」とわざと憎まれ口をたたくアランに、アンドレは穏やかな笑みでこたえた。
「男だってケツをまくって逃げ出したくなるような重労働を女のアイツはやってる。あの細い体で。
でも時折、メンタルがくじけそうになる瞬間を俺は幾度となく見てきたんだ。軍人でもない、たかが
彼女の護衛というだけで軍隊に入った俺にできることはせいぜいこれくらいのことなんだ。アラン、
お前みたいな生粋の軍人があいつを守ってやってくれよな。」
でたよ、アンドレのキラースマイル。この微笑みで、お前、何人の老若男女を萌え殺ししてきたのかねえ、まったく。
でもその時、俺はまだ、物事の本質を理解していなかったんだ。つまり、俺は、
アンドレの許されない、でもひたむきな恋心は知っていた。そしてアンドレは、オスカルへの思慕を引き摺りながら、どうにもならない運命の残酷さを自分の愛用の外套みたいに纏いながら生きているのだと。
そして俺も、アイツと同じ外套らしきものを纏い始めていたんだ。
ちくしょう・・・・。何だってあんな女に、俺はめぐりあったのかな・・・。
そんな感傷と、甘い苛立ちを持て余していた俺は、その日の午後司令官室に呼ばれた。
まだ十分に明るい午後の日差しが、隊長が座る机の上を柔らかく照らしていた。
そこに、隊長も、いた。
花瓶にいけられた薔薇を愛おしそうに愛でる隊長が、いた。
「アラン・ド・ソワソン、入ります。」俺の声に、隊長はフッと我に返ったようだった。
「アラン。近い将来、私達衛兵隊はパリへ行く事になるだろう。その時は。」
美しい隊長の瞳が俺をとらえる。
「何があっても、私についてきてくれ。そして・・・その時、アンドレを頼む。あいつは私のせいで
何かと傷をおってきた。左目にもな・・・。だから、見守ってやってくれ。」
「隊長・・・。」
そして、隊長はまた、花瓶の白い薔薇に目を細めた。
「きれいな薔薇だろう?アンドレがね、早朝屋敷から摘んできてくれたんだ。」
その顔は、その瞳は、白い薔薇の向こうの黒髪のアイツを探していたんだ。
アイツを求めていたんだ。
良かったな、アンドレ。お前のその、重た~い外套は脱ぐ時ができたんだな。
俺は今でも、そしてこれからもあの外套を纏うことになりそうだぜ。
アランは話し終えた時、遠い目をしていた。
古びた木枠の窓から、夕闇が迫る。アランの煮炊きしている鍋からは、何かいい匂いがしてきていた。僕はふと、壁に掛けられた長い髪の女性の絵に目が留まった。
簡単なスケッチだが、男装で、長い髪の綺麗な人。
「アランが、描いたの?これ。」僕は聞かずにはいられなかった。
「バカ言ってんじゃねえ。俺の隊長だった人だ。知り合いに頼んで、描いてもらった。」
あんまり見るなよ、と言ってその絵を見るアランの表情は本当に優しそうだった。
きっとアランは、その隊長を愛していたんだね。
「ね、アラン。衛兵隊時代の事、もっと聞きたいな。だめですか?」
アランは一瞬、泣き笑いの顔を見せた。そして戸棚からグラスを二つ、皿には煮物をついでくれた。
「仕様がねえなあ。酒でも飲むか?ひよっこ。」
「ひよっこじゃないよ!僕は軍人だ!」
アランはカラカラと笑いながら、僕が持ってきた酒をグラスに注いでくれた。
外はもう、夕闇が迫っていた。
FIN.
「栄光のナポレオン」完読いたしました。本当に名作です。ウジェーヌ・ド・ボーアルネは、ジョセフィーヌの息子でナポレオンを義理の父として聡明に成長していきます。アランとの関係がとても好きで、
どうしても皆様に知って欲しくてウジェーヌ語りの小説を書いてしまいました。
ナポレオン、本当に偉大な人です。