アンドレの部屋を訪れたオスカルは、目の前の光景に硬直した。
愛らしい亜麻色の髪の少女が自分に向かって満面の笑みを見せている。
それから、「ジョアンナ、こら、勝手に出てはダメじゃない・・・あら。」という声と共に、現れた女性を前にして、オスカルは自分が場違いな存在であると…思いこんだ。
「あ、し、失礼いたしました。友人を訪ねてきたんですが、お部屋を間違えたみたい。ごめんなさい。」
やっと、声を絞り出し、オスカルは踵をかえしてエレベーターの方へ走っていった。
私ったら、何を勘違いしてたの?そうよ、ネックレスをくれたからって、アンドレが独身だって理由には
ならなかったんだ・・・。エレベーターが到着するのを待ちながら、オスカルの瞳からツウ…と涙が流れた。夢だ・・・そう、短いけどすごく楽しい夢を見ていたんだ。
エレベーターが到着し、目の前の扉が開いた。ふう・・・と深呼吸して彼女は乗り込んだ。
さあ、明日からまた仕事に戻るのよ。もう、このマンションに来ることはないわ。オスカルはエレベーターの一角を見つめながら、初めてきたのにこのマンションがひどく懐かしい気持ちにさえなった。
1階についた。
エレベーターから降りたオスカルの目の前に、さっきの女性が、最初に出迎えてくれた少女の手をひいて待っていた。
「アンドレを訪ねてきたんでしょう、あなた。私は彼の従兄妹でマリ。マリ=ハミルトンって言います。この子は私の娘、ジョアンナ。彼、もうすぐ戻るから、お茶でも飲みながら一緒に待ちましょうよ。」
従兄妹・・・?オスカルは目を大きく見開いて、マリとジョアンナを見た。
「どうぞー。」
「あ・・・ありがとう。」オスカルはおずおずと、ジョアンナから苺柄のマグカップを受け取った。甘いココアの香りが、一時的に動転してしまった彼女の心を優しくほぐしてくれる。彼女はその茶色い液体をゆっくりと口に含んだ。「美味しい・・・。どうもありがとう。」
「どういたしまして。ごめんなさいね、娘のカップを幾つか置かせてもらっているからそんなカップしかなくって。アンドレの食器棚をあんまり引っ掻き回すと悪いから。」マリは自分もココアを飲むとニッコリと笑った。
「ごめんなさいね、アンドレの彼女か奥さんだと思ったんでしょ?」
「え?ええ・・・。あの、こちらこそごめんなさい。びっくりさせましたよね。」
「私もアンドレも、祖父が日本人なの。聞いていると思うけど。私の方が東洋人の血が濃いみたいで、
アンドレと似てないから無理もないわ。でも心配しないでね。私にはガイっていう、最愛の旦那がいるから。」
切れ長で少し気の強そうな美人のマリは、笑うと口角が下がり、アンドレによく似ているな、と思った。
「すごく羨ましい。綺麗な黒髪で綺麗な瞳で凛としていて、マリさん。」
オスカルは、以前ファッション雑誌で見た、日本の有名なコスメのイメージガールに似ているな、と思った。
「私の方こそ羨ましいよ、オスカルの綺麗な金髪が。ねえ、それよりも。」マリは悪戯っ子のような顔で
オスカルを見た。「私、あなたがアンドレの想い人だってすぐにわかっちゃった。」
「え?どうして?」
「アンドレはね、学生時代から金髪の女の子とすれ違ったり、雑誌で金髪のモデルが出てくると何気なく目を留めるの。それも長い髪で緩いウエーヴがかかっている女の子にね。でもその後で、『違うなあ。』
ってつぶやいてた。私が『どうしたの?』って聞くと、『え?俺なんか言った?』って言うの。彼の記憶の奥底はわからないけど、何かあるのね、きっと。」ココアのカップを両手で包み込みながら、マリは遠い目をした。
誰にも打ち明けることはないだろう。自分は密かに、「従兄妹同士・結婚・不可能?」というキーワードで、ネット検索をしたことがあった。小さい頃から仲良くしていたアンドレにマリは密かに淡い恋心をいだいていたことがある。ガイにプロポーズされた時、マリは最後の賭けだと思ってアンドレに相談した。
アンドレが動揺してくれるなら、自分の気持ちを打ち明けよう。
でもアンドレは、手放しに喜び、自分を洒落たカフェに連れて行ってご馳走してくれた。「今度はガイも連れておいで。一緒にお祝いしよう。」って。
マリの誰にも知られない恋は、封印された。
美しいマリの横顔にオスカルは何か憂いを感じた。この人もまた、アンドレに恋をしていたのではないか、と胸が痛む。
「ジョアンナ、とっても可愛いですね。ママに似て美人になるでしょうね、きっと。」
「ありがとう。私が主婦兼カメラマンをやっているものだから、子供なのにすごくしっかりしてる。この子が
たまたま熱を出して、私が仕事を休めなくって。その時にね、アンドレが連れておいで、って言ってくれたのがきっかけで、時々お邪魔させてもらう事があるの。ジョアンナはアンドレが大好きで・・・ほとんど初恋の人って言ってもいいくらいよ。ここに遊びに来る度に自分の大切なもの・・・大好きなハンカチとか、ちっちゃなヌイグルミとかをわざとここへ置いておくの。お家に帰ってから、『アンドレのお家に忘れ物しちゃった。』って告白するのよ。またここに来る口実をつくっているの。同じ女ながら、感心するわ、まったく。」
ビスケットとココアに夢中になってるジョアンナを見て、オスカルは思わず微笑んだ。本当に男の子に大事にされる子って、小さな頃からその術を知ってるんだなあ・・・なんて思ってもみたりした。
「ところであの、アンドレは今日どこへ出かけたんですか?」すっかりマリに打ち解けたオスカルは、
聞いた。「実は私、数日前からちょっとしたトラブルに遭って落ち込んでしまって。今日はお休みだって
きいていたから彼に会いたくて突然来てしまったの。」
「う~ん。それがね。」マリは美しい眉をひそめた。「今朝、ジョアンナが例によってお気に入りのハンカチをアンドレの所へ置いてきたって言うから、来てみたの。そうしたら彼、出かける準備をしていて。
『お店の方でお客からのクレームがあって、店長直々に謝りに来いって言ってる。なんだか話がおかしいんだけど、一応行ってみるさ。こんな仕事していればいろんな奴がいる。ゆっくりしていってくれ。ケーキでも買ってくるよ。』そう言って出かけたのよ。ちょっと遅いなあって私も心配してるの。」
何だか、得も言われぬ不安が、オスカルの心に広がっていた。
その時だった。玄関のチャイムが鳴った。「あ、アンドレよ。お待ちかねの、ね!」マリがクスリと笑って
オスカルに言った。「ね、あなたがでてあげたら?びっくりするわよ、彼。」
「ええ?ね、一緒に行ってよ、マリ。」オスカルはそう言ったが、マリはジョアンナと白猫のユキにおやつをあげようとリビングへ引っ込んだ。
ところが、ユキはなぜか、ニャー、ニャーと鳴き続け玄関に走っていった。「じゃあ、ユキ。一緒にアンドレを迎えてくれるかな。」オスカルはおずおずと、玄関のドアを開けた。
「ごめんよ、遅くなって・・・・ってあれ?オスカル!どうしたの?」
そう言って驚く彼の上着は、泥だらけになっていた。
「どうしたの?その格好。何かあったの?」オスカルは悲鳴をあげた。そんな彼女の質問には答えず、
アンドレは彼女を抱きよせた。
「ごめん。泥だらけなのに、君に触れたくなった。」
クスクス・・・とリビングで笑ってるであろう二人を気にしつつ、オスカルもまた、彼の泥だらけの上着に
手を回し、彼の広い背中を包んだ。
続く。
マリ=ハミルトンのイメージは、1976年の資生堂のキャンペーン・ガール、真行寺君枝さんです。エキゾチックなイメージがとっても素敵な方でしたね。