「嘘みたい!この季節にヤグルマギクが見られるなんて。それもこんなにたくさん。」
しっかりとアンドレの腰にしがみついていたオスカルは、喜びの声を上げてバイクから降りた。
金曜の夜、アンドレの部屋に泊った彼女は、二人で幸せな一夜を過ごした。それを言い訳にしてはいけないが、朝目覚めた時すでに9時を回っていた。今日はここからさほど遠くない、ヴァンセンヌの森の近くの湖に出かける予定だが、ランチを持って行くという予定は却下。途中のコンビニで調達することにした。
「仕方ないさ、お互いクタクタになって眠っちゃったんだから。」そう言って笑いながら、アンドレがオスカルに「はい、これ。」と手渡したのは、バイク用のヘルメット。オスカルは目を丸くした。
「え?メトロで行くんじゃないの?」
「一度でいいからとびきりの美女を後ろにのせて、走ってみたかったんだ。・・・そう思って俺のメットと色違いで買ってきたんだけどな。」アンドレは、相手を伺うように言った。「こわい?」
「私のために、ヘルメット用意して・・・?」うんうん、と頷く彼。
「わかったわ。でも私、はじめてだからあんまりスピード出さないでね。」そう言うと、彼女は長い髪を
器用にお団子にまとめ、ヘルメットの中におさめた。
「じゃあ、マドモアゼル。俺の腰にしっかりしがみついてよ。」アンドレは嬉しそうにタンデムシートの
オスカルに言うと、滑らかにバイクを発進させた。
彼の広い背中に自分の命の全てを預けているような照れくささと、振り落とされたら大変、という緊張でオスカルはぎゅうっとアンドレにしがみついた。
「うまいよ、オスカル。そんな風にピッタリとくっついてて。昨日の夜みたいにね。」そんなアンドレの冗談に「まったく、もう!」とオスカルが言っても彼は涼しい顔。
観念して左右の景色を見ることに専念する。街並みが、木々が、風のように通り抜けていき景色がどんどん変わっていく事で、自分が風になったような高揚感を彼女は感じた。
実は彼女、バイクに憧れをいだいていた。
ストイックな父と母による数多くの習い事と勉強の中で、息抜きに見てた映画と漫画。
「ローマの休日」の中のヘプバーンや、憧れの同級生とバイクで海に行く漫画の中の女の子は
自分が追い求めている自由の象徴だったのかもしれない。
だから、
今朝、彼にヘルメットを差し出された時。
心が躍った。
自分がヘプバーン扮するアン王女になれるんだもの。
目的地まではさほど時間はかからないので、途中のコンビニで食料を調達する以外で休憩は取らなかった。走るのに邪魔にならないよう、サンドイッチと飲物といった軽めのものを背中にしょって、
再びタンデムシートにのり、二人が目的地に着いたのは、正午を少し過ぎた頃。
二人は手を繋いでヤグルマギクの群生の中を散策した。
ぽっかりとヤグルマギクに囲まれた空間を見つけるとそこにレジャーシートを敷いて、座った。
伸びやかに育ったヤグルマギクが二人を異世界に隠してくれている。
「おいでよ。」アンドレがオスカルを自分の胸に寄せた。
「怖くなかった?後ろに乗ってるほうが、断然怖いんだよね、バイクは。」
「ううん。『ローマの休日』のアン王女みたいで嬉しかった。すごくドキドキして。」
「アン王女か・・・。俺はむしろ、『バード・オン・ワイヤー』のメル・ギブソンになったみたいでめちゃくちゃ
嬉しかったな。」
「『バード・オン・ワイヤー』?」
「うん。超有名ってほどじゃないけど、メル・ギブソンが出てくる映画でね。ホンダのバイクに乗って
金髪美人を後ろにのせて走るシーンがカッコよくて。憧れてた。」
アンドレは彼女を抱き寄せたまま、フフっと笑う。
「今日はなんと・・・!あの金髪美人も逃げ出したくなるくらいの美人をのせてるんだぜ?俺は。」
オスカルは声を立てて笑った。そして。
彼女の瞳からポロポロと
涙がこぼれ落ちた。
アンドレは驚いて、体を起こすと彼女の両腕を掴み顔を覗き込んだ。
「ごめんよ。やっぱり気分が悪くなった?メトロで来るべきだったかな?」
「違う。違うの。私ね。」泣き笑いの顔で、彼女は言った。
「私、自殺するつもりでここに来たの。あの日。」
「?」
「あなたがコンテストで入賞した作品に写っていたのは、私よ。」
「・・・・・・・!」
もう何年前になるだろう。
高校生になるかならないかの頃のオスカルは、目を固く閉ざしながら日々を送っていたような気がする。
あまりにも有名な両親の子供は、時として陰ではいじめられる。
オスカルもまた、例外ではなかった。特に同性からの陰湿ないじめ。物を隠される。ノートに書かれる心ない言葉。そして。
ネット上に晒された自分の写真。書かれていたのは、
「綺麗な顔していて、上品ぶってるけど、頼めば誰だってやらせてくれる子。」
彼女の中で何かが壊れた。
翌日、フラフラと一人、メトロを乗り継ぎ、湖のあるところへたどり着いた。
まだ早朝。周りには誰もいない。今、ここに飛び込んでしまえば何もかもが終わる。
そう思って、オスカルは一歩一歩、湖に近づいて行った。そして膝まで、水に浸かった時、彼女は連続的なシャッター音にハッとした。そして後ろを振り向いた時、黒い髪の少年がカメラを持って一心に花を
撮影している。彼は自分に気づいていない?いや、それよりも・・・。
美しいヤグルマギクの群生に、彼女は息を飲んだ。薄紅、紫、藍色の可憐な花達は手入れをされる訳でもないのに誇り高く咲き誇っている。こんな美しい風景に永遠に別れを告げていいのだろうか?
い・や・だ。愛しいもの、美しいものに命を捧げるならまだしも、卑劣な中傷に命など捧げられるものか。
オスカルは踵をかえすと、自分の濡れた足をどうしようかと迷っていた。その時だった。
少し離れたところに、清潔なスポーツタオルが置かれている。そして、
カメラ小僧の少年がトコトコと帰っていくのが見えた。ふっと、片手をあげてこっちに挨拶をしてるのかな?オスカルは、タオルで足を拭き、靴をはいてから、追いかけた。
彼はもう、いなかった・・・。
「あなたの部屋であの写真を見た時、一目で自分だってわかったの。そしてあの時の男の子があなただという事も。」
「そうか・・・。あの時、なぜ君が足を濡らしているのかわからなかった。ただ、何か拭くものを、と思って置いてきたんだ。バカだな、俺。写真を撮ることに夢中だったんだ。」
「ごめんなさい。あなたの中の、素敵な思い出に影を差してしまって。春を感じてくれた女の子が自殺志願者だったなんてね。」
「それだったなら、なおのことだ。」アンドレはオスカルの目を見た。
「君に生きてほしくて俺はあそこへ導かれた。そうじゃないか?」
「アンドレ。」
「泣くな。君の切なくて辛い想い出を全て俺との楽しい想い出に塗り替えていこうよ。今日をもってこの場所は、恋人との初デートの場所ってことでどう?」
彼の言葉にもかかわらず、オスカルは彼の胸に顔を埋めて泣いてしまった。
「しょうがないな。じゃあ、好きなだけ泣いて。それから昼メシにしよう。」
そう言ってアンドレは彼女の頭を包んで、青空を見上げた。
彼女の瞳と向かい合っているようだな、と思いながら。
数日後の昼休み。
会社近くのカフェでコーヒーを飲みながら、先日の彼女との一時を思い出していた。モノクロ絵の様だった自分の日々に、色が施された。それは、傍目にも気づかれそうになる。
「アンドレ、何か良いことあった?」
電話をかけてきた母が電話の奥で笑っていた。
いつか・・・母に彼女を紹介できるといいな・・・。
そんなことを思いながら、ネットニュースを見ていた時、アンドレの表情がこわばった。
・・・・日本で季節外れの大規模な土砂災害。被害者の中に、ジャーナリスト、アラン・ド・ソワソン氏が。彼は数年前、日本で起きた震災を取材し続けている。・・・・アラン氏は、家屋の倒壊に巻き込まれ、右腕を骨折。命に別状はない・・・・。
アラン・・・。右腕が・・・!
続く。
諸事情により、グズグズの更新です。数年前の震災時、日本に応援に来てくださったヨーロッパのレスキュー部隊の方達、昨年の台風被害などを漠然と参考にさせていただいています。
実際に被害に遭われた方がもしも、不愉快なお気持ちになられていたら、ごめんなさい。
作中に出てくる湖は、ヴァンセンヌの森の中にある実在の湖ですが、ヤグルマギクの群生は、フィクションです。