「ねえねえ、また来てるわ、あの人。」「あ、本当。ねえ、ライザ、素敵な人よねえ。」ルイーズとライザがカウンターの向こうで華やいだ声を一生懸命ひそめて話している。
「なに?どうしたんだい、二人とも。そんな隅っこでコソコソと。」
この店の女主人、シモーヌが二人を覗き込んだ。
今日は週末。ビストロ・シモーヌは疲れを癒しにきた若者や、酒を酌み交わし、好みのステップで即興のダンスを披露するカップルで明るくにぎわっていた。そんな店のカウンターの隅に輝く金髪を地味なリボンで束ねた客の姿があった。
「あ、おかみさん。あの素敵な人。最近よく来てくれるの。お酒を召し上がった後、お勘定の時に”マダムによろしく伝えてくれ。”ってチップをはずんでくれるんですよ。もう~すごく綺麗な人。おかみさんの大事な人なんですか?」
「・・・ああ、とっても大事な人さ。」
「なんだ、やっぱり。そうじゃなかったら、私紹介してもらおうと思ったのにな。」
「何言ってんの、二人とも。ほら、グラスかして、一番きれいなやつ。」シモーヌはグラスを二つと、ワインのボトルを盆にのせた。
「あの人はね、女。れっきとしたお・ん・な」
目をまあるくしている二人を背に、シモーヌはカウンターの客の所へ行った。
「オスカル様、最近よくここに来てくれるんだね。」シモーヌは花のように笑ってオスカルの隣に座った。オスカルはそんな彼女を眩しそうに見つめた。「まあね。最近屋敷ではあんまり飲ませてくれないんだ。ばあやもアンドレもうるさくってね。」そしてシモーヌのグラスにもワインをなみなみと注いだ。「付き合っておくれ。一人酒はなんだか寂しくってね。」そう言いながら、すでにけっこうできあがっている。
心配そうな顔のシモーヌの隣で、どんどん空になっていく酒瓶。
「屋敷ではあんまり飲ませてくれない・・・。」さっきの言葉がひっかかる。そういえば以前来た時よりも顔色が青い、ような。
グラスを持つオスカルの腕をシモーヌの手が抑えた。
「飲みすぎだよ、オスカル様。・・・・ねえ、なんかあった?何か言いたいことがあるんじゃないの?」
ハッと・・・して見えた表情はすぐにいつもの”オスカル様”に戻った。でも、かつて自分がお仕えしていた頃の彼女の表情よりも儚げな様子がみてとれた。
沈黙が続いた後、オスカルはポツリポツリと話始めた。
「数か月前にね、父上が私の婚約者という男性を私に引き合わせた。」シモーヌは目を大きく見開いた。
「フン、大貴族の次男坊で、見目麗しい男さ。父上らしい。シモーヌ、この私が結婚だと・・・・お笑いだろ?」
「お笑い・・・じゃないよ、オスカル様。」
オスカルはいつのまにか取り返したグラスの酒を口に含んだ。
「そうだな・・・。私は必死に拒んだ。でもその婚約者とやらは、毎晩毎晩やってきてはまるで家族の一員のように晩餐を共にしていく。そして・・・彼が訪ねてくる日が重なるにつれて、アンドレを屋敷の中で見かける時間がだんだんと少なくなっていった。そのことは・・・私の精神の均衡をだんだんとこわしていった。」
「それから・・・どうしたの?」
「色々な事があってね。私はエゴを通した。アンドレを失いたくなかった。そのために、結婚はお断りした。」
そうだよ、そうこなくっちゃあ。
「結婚の話を白紙に戻せば、また子供の頃のような安穏としたゆるい関係がアンドレとの間に戻ってくるのでは、とその時は思ったんだ。」
残酷だね、オスカル様。
「でも、私は間違っていたらしい。」オスカルは遠い目をした。
「数日前にね・・・・。大雨が降っただろう?アンドレは自分のコートまで私に着せて、ずぶぬれになりながら御者をつとめてくれた。
屋敷に戻ったら、私はすぐに侍女たちに体を拭かれ、さっぱりとしたガウンを着せられ、暖かい飲み物を渡された。”アンドレは?”
と尋ねたら、”あの子はオスカル様の伴でございます。今頃は馬小屋で馬の背を拭いてやっていますよ。お嬢さまが心配することではありません。風邪をひいたとしたらあの子の責任です。”そう言われたんだ。」
なるほどね、あのばあやさんらしいや。
「ひどいだろ?アンドレは私よりもずっと冷え切ったはずだ。だから私は、大きなタオルを持ってそっと馬小屋へ行ってみた。そうしたら・・・。」・・・・そうしたら、どうしたの?
オスカルは伏し目がちにつぶやいた。
「リリアンヌが・・・・侍女の名前なんだけどね・・・彼女がアンドレの濡れた隊服を大事そうに抱えていてアンドレは彼女から渡されたタオルで雨に濡れた黒髪と裸の胸を拭いていたんだ。」
そっか・・・・シモーヌはなんとなく、このかつての女主人の、憂いに満ちた表情の理由がわかってきた。
「文句なんていえるはずもない。だってあいつは・・・アンドレは自由なんだもの。でも、ショックだった。私が小さな頃から、いつもいつも頭を傾けてきた彼の胸があんなに逞しかったことを知らなかったんだ。その裸の胸を惜しげもなくリリアンヌの前に晒していることが・・・とてもいやだった。」苦しそうに、オスカルは続けた。
「当然の報いだよな。今まで彼の気持ちを知りながら何にもないように頼り切って。それでいて気持ちにこたえる努力も、何もしなかったんだから。」いつのまにか、青い瞳からは涙が流れていた。
シモーヌは、オスカルの持っていたグラスをそうっともう一つのグラスと取り換えた。清々しい果実の香りがグラスの中から漂う。
「レモン水。オスカル様、これ飲んで、今日はお帰りなさいな。」
「シモーヌ、私は・・・。」
「ねえ、オスカル様。彼の胸に、自分の胸を重ねてみたいと・・・
思ったんじゃないの?」
「シモーヌ。」オスカルは頬を赤らめうつむいた。
「オスカル様、それってさ・・・好きだったら自然な感情だと思う。もういいじゃない、女に帰ったって。パリで命を助けてもらった小娘がこんな生意気言って・・・そう思ってる?」
「いいや、そんなこと思っていないよ、シモーヌ。ただ・・・」
ただ・・・なんだよもう、じれったいなあ、オスカル様。
「私はさんざん、アンドレを傷つけてきた。こんな私に彼への想いを告白する権利があるのだろうか?」
本当に失礼な言い方だけど・・・オスカル様はまるで子供が母親にすがるように私を見つめた。
「何言ってるのさ、オスカル様。人を愛することに”遅すぎ”なんてないよ。だって・・・人を信じよう、人を愛そう・・・そんな大事なことを私は家族を失った時に捨てていたけど、その感情を取り戻させてくれたのはあの時のオスカル様とアンドレじゃない?忘れないでよね、まったく。」
そう言ってシモーヌは、オスカルに微笑んだ。
オスカルはひんやりとしたレモン水を口に含むとホッとした表情でシモーヌの胸に頭を預けた。
「ありがとう、シモーヌ。彼に言うよ。”愛しているよ。”と。
勇気をくれてありがとう。」
今夜初めて、オスカルは安らかな表情を浮かべた。
もう少し、続く。
