『田園に死す』雑記帳(2) | もずくスープね

『田園に死す』雑記帳(2)

映画『田園に死す』が、寺山修司自身による短歌朗読で始まることはあまりに有名である。一方、流山児★事務所の演劇版『田園に死す』は、思いがけない始まり方で観客を呆然とさせるのであった。

場内アナウンス「本日はご来場ください(して…)」の「」の音に頭の音がかぶさりながら「ッチ擦るつかの」という台詞が突然発せられると共に、実際にマッチが擦られることによって暗闇に束の間の演劇空間が垣間見える。と、続いて「つかの」の「」にかぶせれられるように、別の俳優によって「ッチ擦るつかの」が発せられ、さらに別の俳優へと次々に連鎖してゆく。こうして、みるみるうちに舞台上には「ッチ擦るつかの」の「間」=「演劇空間」がどんどん穿たれてゆき、続いて、その他の寺山短歌群が洪水のように詠み出されれることで観客は、寺山をめぐる劇世界の中に、否応なく吸い込まれてゆくのだ。

そして遂に映画冒頭の寺山修司の声が舞台に降りてくる。「大工町米町寺町仏町老婆買う町あらずやつばめよ」「新しき仏壇買ひに行きしまま行方不明のおとうとと鳥」(歌集『田園に死す』より)。こうして観客に少しも息を継がせぬまま、舞台は映画『田園に死す』の主題歌、J・A・シーザーの最高傑作「こどもぼさつ」の、全劇団員による合唱に突入する。

寺山ファンならば、天井桟敷の『盲人書簡』における、苦力が次々にマッチ擦る場面と融合するように、かの有名な「マッチ擦るつかの間海に霧ふかし身捨つるほどの祖国やありや」の一節が、かくも効果的に使われることに早くも感銘を受けるかもしれない。天野天街のファンならば、『マッチ一本ノ話』『マバタキノ棺』を頭によぎらせながら、瞬間の中に永遠を宿らせる儀式に、進んで己が身を投じるかもしれない。ともあれ、われわれ観客は、あれよあれよという間に『田園に死す』の世界へと引きずり込まれてしまったのである。

そこからしばらくは、映画『田園に死す』の流れに沿いながら物語が進行してゆくと見せかける。が、細部においては忠実ではない。主題歌明けての、最初の場面、故障した柱時計をめぐる主人公シンジの母と隣家の主人のとめどなく反復する会話。天野は柱時計と共にそこに流れる時間自体をも壊してしまうのだ。


観客はこの段階から、線的で一方通行的な現実の時間感覚を、徐々に失わされてゆく。その後も、この種の反復が随所に差し挟まれてゆくことで、観る者は、知らず知らずのうちにアナクロニスム(時間錯誤)の森に、奥深く、迷い込まされることとなるのだ。その頃になると、「昭和五十八年五月四日。敗血症」とか「あと三十五年…やりたいこと…やるんだぜ」といった、不吉な臭いのする言葉がさりげなく囁かれるのをわれわれは耳にするようになる。

寺山修司は、事実として昭和五十八年(1983年)五月四日、敗血症で47歳で死ぬのである。そして、芝居の主人公シンジは、「東京タワーは昭和三十三年(1958年)に建つ、まだ十年も先のことだよ」と語ることによって、とりあえず今、昭和二十三年(1948年)に生きていることがわかり、寺山修司の年表に照らせばそれは12歳ということになる。つまり寺山が死ぬ47歳まで、あと「三十五年」なのだ。


そのことに気づくならば、舞台中央の、壊れた柱時計の針がずっと同じ時刻に止まっていることに誰かが注目するかもしれない。12時5分。それは寺山修司の死亡時刻である。この演劇作品は、寺山修司が阿佐ヶ谷の河北総合病院で死んだ12時5分、その直前の刹那=マッチ擦る束の間に展開した「夢」であると、そのように設定したと、見てとれるのだが、どうだろう。

そう意識した頃には、主人公シンジの住む村にサーカス小屋がやってくるのだが、原作の映画『田園に死す』のサーカス小屋シーンとは少々異なる話が展開されてゆくことに、われわれは「おや?」と思う。ここでは、一人の人物が二人に分裂・増殖する(実際の双子の俳優がつかわれる)スケッチや、(寺山が少年期に愛読したという)明智小五郎と小林少年率いる少年探偵団が登場するスケッチ、また、役者を演出する演出家のスケッチ、などが描かれる。

少年探偵団は、団員の一人<ゼンマイ仕掛けの腹話術人形>がはぐれてしまい、団長の<小林少年>がそれを探そうとする。<小林少年>は無線トランシーバーを通じてその声を<ゼンマイ仕掛けの腹話術人形>の口にとばすことができる。<ゼンマイ仕掛けの腹話術人形>は<ワタシの本体であるワタシ>=<小林少年>を探さねばならないのだが、<小林少年>の言葉が口から出てきてしまうために、うまく<小林少年>を探すことができない。一方、<小林少年>は、すぐ後方に来ている<ゼンマイ仕掛けの腹話術人形>が、自分の声と同期してしまっているので、それと気づかずに前方を探し続けてしまう。こうしてこの二人は、それぞれ探す対象を探しあてることができないまま、周辺をぐるぐると、とめどなく回り続けることとなるのだ。この状態は、映画『田園に死す』における「私」探しの主題とも大いに関係するものではないか。だとすれば、劇中の<作者の分身>は<作者>を探すことができるのか。

次に、役者の演技にダメだしする<演出家>、しかしその<演出家>は、実は<<演出家>を演じている役者>であり、彼の演技にダメだしする<別の演出家>が現れる。しかし、その<別の演出家>も<<別の演出家>を演じている役者>であって、その演技にダメだしする<さらに別の演出家>が現れる。しかし、その<さらに別の演出家>の演技もまた、いままでの役者たちがダメ出しをする。マトリョーシカのような入れ子構造が、いつしか円環構造を形成するのである。実は、この種の円環構造が、この芝居の大きな鍵を握ることになることを後にわれわれは思い知らされるのだ…。

こうして、<異界>=<外部>から訪れたサーカス小屋でシンジが出会った体験は、この後の劇の新たなる展開に向けた、通過儀礼とも煉獄体験ともいえそうだ。この後は、原作映画からのストーリーの乖離がますますエスカレートする一方で、寺山修司の色々な作品の断片や、彼の生涯や死にまつわる断片が、次々に闖入し、虚構と現実が入り乱れて、天野的流儀でコラージュされてゆく。さしづめ、サーカス小屋は、ある意味、寺山ファミリーの<外部>であり<他者>である天野が自分のドラマトゥルギーを全開にするキッカケを示すための装置なのではなかったろうか。同時に、それ以降は、寺山修司が死の床の夢で見ている走馬燈世界が、舞台上にどっと流れ込んできたようにも見えた。

今日はここまで。もちろん、これで終われない。まだまだ書くべきことは多い。
1、「私」の解体。2、死ぬのはいつも他人。3、二つの下北、そして「不完全な死体」へ。4,不完全性定理、あるいはゲーデル・エッシャー・バッハ。5,宮台真司さんらのトーク…

いつか書かねば!