ミュージカル「WICKED(ウィケド)」の魅力 その2 | もずくスープね

ミュージカル「WICKED(ウィケド)」の魅力 その2

先日このブログで、ダリの「水の影に眠る犬を見るため非常に注意深く海の皮膚をもちあげる少女である私」のことを書きながら、ちょっと思うことがあったので、大昔に買ったダリの画集をめくっていると寺山修司が次のようなことを書いていた。

ひとことで言ってしまえば、ダリの美術をつらぬいているのは、「表面への懐疑」ということである。(寺山修司 「鏡の皮膚をめくる怪人」1978年)

この「表面への懐疑」ということを、より寺山修司らしいスローガンにアレンジしてみるならば、さしづめ「表面を懐疑せよ、世界を拡げよう」であろう(もちろん「書を捨てよ町へ出よう」のノリで!)。私が、最近、このブログで説いてきたこと(ビートルズの蝿のこと、クノーの「文体練習」のこと、などなど)も、そういうことを言いたかったわけだ。


そこで、再びミュージカル『WICKED(ウィケド)』の話に戻る。なぜなら、『WICKED』もまた、「表面を懐疑せよ、世界を拡げよう」という主張を放射し続ける物語だからである。以前にも書いた通り、『WICKED』は『オズの魔法使い』の裏ストーリーである。そして、そもそも元の『オズの魔法使い』自体が、「表面への懐疑」というテーマを内包している。その物語では、「オズの素晴らしき魔法使い(The Wonderful Wizard of Oz)」だと思われていた人が、実は全然、魔法なんか使えない、ただのおっさんで、いろいろな小細工で人々を騙し続けていた、どうしようもない詐欺師だったことが明らかとなる。ここで読者が得る教訓こそ「表面に騙されるな。表面を懐疑せよ」ということなのである。そして、その教訓を突き詰めれば、『オズの魔法使い』という物語自体の表面さえも懐疑されてしかるべきで、その皮をめくった裏側の世界に視線と想像力(=創造力)を発展させることは当然の成行きというべきだろう。そんな「表面を懐疑せよ、世界を拡げよう」の果てに見出されし、拡張された世界こそ、『WICKED』にほかならないのだ。


しかし、まずは前提をしっかりと踏まえる必要がある。『オズの魔法使い(The Wonderful Wizard of Oz)』は、アメリカで生まれた児童文学である。ライマン・フランク・ボーム(Lyman Frank Baum)によって著され、1900年に発表された。さらに、1939年にはMGMで映画化され(ヴィクター・フレミング監督、ジュディ・ガーランド主演)、名曲「虹の彼方に」と共に、アメリカ国民にはあまねく知られる童話となった。もちろん、日本においても、非常にポピュラーな童話には違いないが、とはいえ「忘れた」という人もいようし、「実は中身を全く知らない」という人だっていてもおかしくはない。そのような人は、駅や書店の前などで500円で売っている廉価DVDで前述映画のそれを買って観るのが、一番手っ取り早いだろう。また、もしも原作にあたりたければ、
原語(英語)ならば、http://www.cs.cmu.edu/~rgs/wizoz10.html
日本語訳ならば、http://www.genpaku.org/oz/wizoz.html
を読むこともできる。そのようにして、一通り『オズの魔法使い』の全貌を把握したうえでないと、その裏世界である『Wicked』も充分には楽しめない。楽しめなければ勿体ないので、とにかく、『オズの魔法使い』だけはしっかりおさえておいていただきたい。


さて、次に、ミュージカル『WICKED』には、原作がある。グレゴリー・マグワイア『オズの魔女記』(WICKED;The Life and Times of the Wicked Witch of the West;Gregory Maguire,1995)という小説である。ちなみに、日本語訳の本は1996年に大栄出版から出版されるも、現在は絶版(原書のほうは簡単に入手可能)。その内容は、もっぱら西の悪い魔女(the Wicked Witch of the West)をめぐる物語である。『オズの魔法使い』において北の魔女はグリンダという名がすでに紹介されているが、西の悪い魔女の名は出てこず、この『オズの魔女記』において初めてそれがエルファバと明かされる。これは、作者マグワイアが、『オズの魔法使い』の作者Lyman Frank Baumの名前から主に頭文字をとり出してL-F-a-Baと並べて作り出したものだ。この原作本については、機を改めて、じっくり触れる必要があるだろう。なにはともあれ、これも読んでおいて欲しい1冊ではある。



ミュージカル『WICKED』を紹介している「ブロードウェイに連れてって No. 8 (2004. 1)」(http://www.tkonyc.com/pages/BT0401.html )によると、原作の著者マグワイアは、「自作をマーラーのシンフォニーにたとえるなら、ミュージカル版のほうはモーツァルトの軽快なオペラのようだ」と評したという。つまり、ミュージカル『WICKED』は、原作小説ほどダークでヘヴィではなく、明るく華やかではあるのだ。とはいうものの、それもまた、あくまでブロードウェイミュージカルとしての「表面」の印象であって、ある種の注意深さをもってすれば、その背後に潜む「原作」の陰影に触れることは充分可能であろう。(そもそも、モーツァルトにだって暗部はある。モーツァルト、マーラー。時代こそ違え、ともに、ウィーンで活躍したことのある音楽家である。そのウィーンは、かのフロイトやクリムトを生んだ幻想都市でもある。)


いずれにしても、『オズの魔法使い』の「表面」は、『WICKED』によって容赦なく剥離され、その思いも寄らぬ裏側の事情を、暴露されることとなるのだ。エルファバとグリンダは、いかに出会い、いかに親友となり、いかに離別したのか。才能と正義感溢れるエルファバは、いかに「悪い魔女」というレッテルを貼られ、追われる身となったのか。いささか狡猾で、チャラチャラしていたグリンダは、いかに「良い魔女」としてオズの国を治めるようになったのか。エメラルドシティで“美しい国造り”を進めようとするオズの大王の行いとは何であったか。そして、なぜカカシは脳を奪われ、なぜブリキのきこりからは心臓がなくなり、なぜライオンは勇気を失ってしまったのか。さらに、なぜエルファバは緑色異形の子として生まれたのか、その戦慄の運命とは何であったか……。


「表面への懐疑」は、やがて表面を剥がさずにはいられなくなる。表面を剥がせば、そこから世界の異貌が姿を現し始める。この一連の「表面を懐疑せよ、世界を拡げよう」的運動を「レヴォルーション」と言い換えることも可能だ。ならば、それを押進める原動力あるいは衝動とは何であるか。すなわちそれは、とりもなおさず、「造反」の意志であろう。前回、私が言及した「造反有理」が、ここで再び登場する。『WICKED』でその主体を担うのは、エルファバである。オズの魔法使いの虚飾を暴き、そのおぞましい悪政を転覆させるべく、「造反」するエルファバ。そのとき、彼女が歌う「Defying Gravity(重力に逆らって)」という歌は、そのまさに「ディファイングラヴィティ」という歌詞の部分が、私の耳には「造反有理」と聴こえてしまうほどだ。

エルファバは生まれた時から緑色異形の子としての受難を背負いながら、最後にドロシーに水をかけられ殺されてしまうことになっている。『WICKED』において「西の魔女が死んだ」と喜ぶ市民たちは、最後までついぞ哀悼の意を表わそうとしない。「邪悪な魔女の死を悼む者などいない(No One Mourns the Wicked)」と歌い続ける愚かな市民たち。愚かな市民は、ポピュリスムという「表面」によって左右されるのみである(だからグリンダは「ポピュラー」たれと歌うのだろうが)。所詮これが、世間というものだ。世の中の現実というものだ。だから死んで花実が咲くことなどないのだ。であればこそ、世間の迫害を受ける者は、自分で自分の世界を切り拓くしかないのだ。自分で革命をおこし、自分で世界を増設するのだ。そのためには「表面を懐疑せよ、世界を拡げよう、造反有理」、と、『WICKED』は、世をはかなむ“いじめられっ子”たちに、進むべき道筋を示しているようにも読み取れる。


ときに、本日の冒頭で引用した寺山修司のダリ論には、その後、次のような一節が現れるのだった。

ダリの美的世界を一口で言うならば、「内部によって、表面が犯されつづける」ということではないだろうか? (寺山修司 「鏡の皮膚をめくる怪人」1978年)


そうなのだ。とどのつまり、懐疑された表面を剥ぎ取った末に、その剥き出しとなった内部によって元の表面が侵犯されてこそ、「造反」は「有理」なものとして成就したといえるのだろう。たとえ、エルファバのように、その革命が一見失敗に終わったとしても、その痕跡は、表面を元のままにはしておかない。エルファバの造反がもたらしたオズの国の変化も、確実にあった(が、まだこの場では明かにはしない)。そして、これだけは明言できる。一度『WICKED』を観てしまったら、『オズの魔法使い』は二度と素直には読めなくなる。これこそ、「内部によって、表面が犯されつづける」ということの確かな証左といえるだろう。