世界を増設する | もずくスープね

世界を増設する

世界は一つ、だとか、人生は一度きり、なんてよく言われるけれど、世界だって人生だって、いくらでも増設できると思うべし。世界を拡張しよう、人生に厚みをもたせよう、そしてそれらをとっくりと味わおう。そんな言葉を、死に急ぐ中学生や追い詰められた大人たちにコッソリと耳打ちしてやりたい、と、前回以来、思うわけなのだが、実際、そんな理屈をいくら口で言ったところで、「所詮はdreamerの戯れ言」と、引かれるだけだろう。しかし、或る種のすぐれた芸術作品ならば、世界の拡張性を、知らず知らずのうちに人に気付かせるという効用がある。

『地下鉄のザジ』で知られるフランスの作家、レーモン・クノー(1903~1976)が著した『文体練習(exercices de style)』(1947)という奇妙な本をご存知だろうか。ある一つの、他愛もない出来事について、なんと99通りもの文体形式を駆使して99通りに描写、壮麗無比なる言語の変奏曲を繰り広げてゆく。……などと説明しつつ、実は、なんかアホだなあ、って感じの文学実験なのだけれど、とはいえ、これぞ、世界を重層化する試みには違いない。一つの小さな日常的風景が、目も眩むような豊饒へと少しづつ変貌してゆく様を、ぜひ体験していただきたい。日本語版は、1996年に、朝比奈弘治氏の翻訳で朝日出版社より刊行されている。

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実は『文体練習』のことは、日本でも早い時期から幾人かの外国文学研究者によって紹介されていたが、その中の一つに、池内紀氏の『諷刺の文学』(1978)という著書があった。それゆえに、私はかねてより池内紀氏を尊敬していた。で、それとは全く関係ないことなのだが、今年、松本市に出張の折、松本市民芸術館の裏手にある「浅田」という蕎麦屋で、美味このうえない蕎麦を食べた。その美味に感動する自分を記録に残そうと、同行者に記念撮影してもらった。帰宅後、その写真を見てみると、私の背後に、なんと意外なことに、池内紀氏がうつりこんでいた。池内紀氏はなぜ松本市の「浅田」で、私の背中の後ろで蕎麦を食べているのか。誰と、何を話しているのか。いろいろな情景がイマジネーションとして私の脳内を飛び交う。このように、何気ない一つの日常世界が、突如として思わぬ方向に増設されることは、往々にしてあるのだ。


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話を『文体練習』のことに戻すと、今年の9月にコミック版『コミック文体練習』という本が国書刊行会より出版された(著・マット・マドン、訳・大久保譲)。マット・マドンという人は、現代のアメリカの漫画家であるが、クノーの意匠をそっくり受け継ぎ、これまたちょっとした他愛のないスケッチを、99通りの方法で描き分けたのであった。この実験コミックスのことは、次のサイトでも詳しいので是非チェックしていただきたい。→http://www.exercisesinstyle.com/

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こういう、愉快な実験をしながら世界を拡張する試みを、頻繁におこなう日本の劇団といえば、いうまでもなく、シベリア少女鉄道であろう。彼らの演劇は、非常にユニークだ。最初に観客の見ている劇世界は、“視点”をほんの少しずらされるだけで、全く別なる劇世界へと変貌させられてしまう。しごくシリアスな物語が、とんでもなく馬鹿げた何ものかであったことが判明する。これは、マグリットやダリなどでおなじみの「だまし絵」の原理である。

世界は、目に見えているものとは限らないこと。我々の拠って立つ世界は、たった一つではなく、“視点”をちょっとずらすだけで、新たなる世界を増設することが可能であること。そうしたことを、シベリア少女鉄道の演劇は何気なく教えてくれる。

少なくとも、私たちは「表」の世界だけを見て、それがすべてだとは思うまい。浮世舞台の花道は 「表」もあれば「裏」もある。花と咲く実に歌あれば、咲かぬ花にも歌ひとつ。ダリの「水の影に眠る犬を見るため非常に注意深く海の皮膚をもちあげる少女である私」という絵さながらに、世界の皮膚をめくりあげ、その「裏」側に注意深く視線を投じてみよう。世界の異貌との出会い、これこそが人生の醍醐味なのである。