ビートルズ大学 あるいは、蝿礼賛 | もずくスープね

ビートルズ大学 あるいは、蝿礼賛

ラスベガスのシルクドソレイユ公演のためのサントラとして作られた『LOVE』というアルバムが巷を賑わせているけれど、ビートルズについてあれやこれや考えることは、来日40周年を数える今もなお、いつだって新鮮である。

あれは2、3年前のことであったか、“みーやん”こと、宮永正隆氏の運転する車に同乗させて貰った際のことである。宮永氏が、「こんなのはどうですか」と、ビートルズ関連の或る秘蔵音源を私に聴かせてくれた。それは、1969年1月30日、ロンドンはアップルレコード社の屋上でおこなわれた、伝説的な“ルーフトップ・コンサート”の模様を収録したものであった。……ということは、つまり、映画『レット・イット・ビー』でおなじみ、「ゲットバック」で始まる一連の演奏には違いないのだが……ちょっと待て、どこか様子が違う。音が異様に遠いのである。そして、なにやら喧騒の雰囲気が生々しく感じられる。

宮永氏の説明するには、それは、アップルレコード社屋上で演奏が繰り広げられているのを、下の路面から録音した音源なのだという。言い換えれば、それは通行人の視点で録音されたものとなる。音源なのに、“視点”というのはおかしいかもしれない。しかし、その音源からは、まさに通行人の“視点”を通した、路面の風景が“見えてくる”のである。そこにおいては、当然のこととして、ビートルズの姿はない。聴き手は、ただ通行人の、次のような気持ちと同化するばかりなのである。

……或る日、ロンドンのサヴィル・ロウ通りを歩いていると突如として、ビルの上のほうから鳴り響くロックの大音響。何だ? ここにはアップルレコードの社屋がある。すると、これは、何年も人前での演奏を行っていないビートルズの演奏なのか? そうこうするうちに、周辺は次第に大騒ぎとなってきた。警察もやってきた。このハプニングは迷惑な騒音なのか、それとも自分は大変な幸運に遭遇したのか……そうした状況が、手に取るようにリアルに伝わってくるのである。

これは、過去幾度もアルバム『レット・イット・ビー』を聴いてきた私にとってさえ、新鮮な体験であった。屋上セッションの音源や映像を直接見聞きするのとは異なる、いわば裏『レット・イット・ビー』体験であり、世界の拡張を体感することに等しい。その感慨を追求する態度を、宮永氏は近著『ビートルズ大学』の中で、「賞味」という語をもちいて表現した。


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『ビートルズ大学』は、これまで一通り語り尽くされてきたビートルズ史に対して、さまざまな“視点”に基づく史料をかき集めて来ては、ひとつひとつを丁寧かつ鋭く再検証し、ビートルズ史の「常識」を、ある時には覆してみたり、またある時には、ふくよかに膨らませてみせる。それは、「大学」と銘打つにふさわしい学術的態度であり、きわめて正しいことである。が、しかし、その正しさの上にあぐらをかくだけにとどまらないのが宮永流である。そこにあるのは、ただ偏狭で硬直的な「学者」の“視点”ではない。「偏愛的マニア」や「ユーモア愛好家」など様々な“視点”が次々に現われては、“視点”という名の幾枚もの舌が、対象物をくまなくしゃぶり回し、重層的かつ快楽的に味わい尽くそうとする。そんな営為こそが「賞味」の本質というべきものだろう。

『ビートルズ大学』の中には、アルバム『レット・イット・ビー・ネイキッド』の付録CD「フライ・オン・ザ・ウォール」の楽しみ方に関する記述もある。「フライ・オン・ザ・ウォール」とは、『レット・イット・ビー』の元となる、いわゆる「ゲットバック・セッション」の最中に、スタジオの壁にとまっていた蝿が聴いた、という設定で構成された音源ということだ。蝿の“視点”(聴点)で、ビートルズメンバーたちのリハーサルや会話が構成されている。これもまた、『レット・イット・ビー』なり『レット・イット・ビー・ネイキッド』なりの裏側を覗く好材料なのだが、これを当然のように、自ら蝿に同化して解説する宮永氏の喜々とした筆致といったらない。1995年にビートルズ名義で発表された『フリー・アズ・ア・バード』のビデオクリップは、鳥の“視点”(bird's-eye view)で作られたものだったが、私の頭の中では、姿は蝿で、顔だけが宮永氏という蝿男が、スタジオの壁で息をひそまながらビートルズのセッションを眺めてるイメージが容易に想像できるし、その蝿男の複眼を通して映し出される映像もなんとなく予想できる。

たった一つの事象も、複数の“視点”から見聞きすることで、その数の分だけ、世界は増殖する。増殖した世界をさらに束ねて、ミルフィーユかタコスのように重層的に味わえるならば、なんと豊かなことであろう。豊かさは、感性を拡張し、人心にゆとりと光明をもたらす。よもや世界はたった一つなんかではないのだ。私たちは、「効率」や「合理性」の名の下に、世界を一つに統合させようとする陰謀なんかに巻き込まれないようにすることが肝要だ。吉本隆明の言葉を借りるなら「重層的な非決定へ」である。さまざまな“視点”を求めよう。さまざまな“視点”を自らの内に作り出そう。それらの“視点”において、バランスよく世界を賞味しよう。そんなスローガンを、死に急ぐ中学生や追い詰められた大人たちにコッソリと耳打ちしてみたい。