明るい瞳 | 映画と私

明るい瞳


今日は、第七芸術劇場で「明るい瞳」を鑑賞してきた。
久々に、やられた。けして、派手な作品ではない。
けど、この作品を見れたことは本当によかった。

主人公のファニーは、精神を病んでいる。
兄夫婦の家に世話になってるが、居心地は悪い。
義理の姉の浮気をみつけてからは、とくに居づらくなり、
とうとう押さえきれなくなって暴れてしまう。

兄の家にいれなくなったファニーは、ひとりフランスから、
父の墓があるドイツの小さな村へと旅立つ。
ドイツについて、パンクしているところをオスカーという男が助けてくれる。
言葉は通じないが、ファニーはオスカーに惹かれていく。

映画をみて、よかったと思うのは私の中では、2通りあって、
それは映画全体を通して完成度が高いということと、
もうひとつは本当に短い時間だけど、心が震えるような美しいシーンがあることだ。

この作品は、どちらの要素もあるけれど、特によかったシーンがあった。
ファニーがオスカーの家でピアノをみつける。
そのピアノは大きなピアノカヴァーがしてあって、
ファニーはそのカヴァーを頭からすっぽり被り全く姿が見えない状態で、
シューマンの曲を弾く。
そこにオスカーがやってくる。
美しいピアノの音に感動した、オスカーは拍手する。
拍手に驚いたファニーはピアノカヴァーから顔を出す。
たったこれだけのシーンなのだけど、私は涙が出そうになった。
シューマンの曲も良かったけれど、
言葉の通じないふたりの間に確かに何らかの恋のような感情が
そのとき生まれたとわかったからだ。

それからもふたりは言葉を交わさずに、少しずつ距離を縮めていく。
言葉なしで、自然のなかでやりとりされるふたりの愛は本当に美しい。
私たちは一体、何を喋る必要があったんだろうと思ってしまう。
ファニーが求めていたのは、言葉で説明できるものではなかったのだ。
言語や社会性そういうものが逆にファニーを苦しめていたのだ。

私が、ファニーに共感してしまうのは、程度の差はあれど、私もそういったものに窮屈さを
感じているからだ。この作品はそういうものから静かに解放してくれる。
会話なしで、みていられる映画が今、果たしてどれだけあるだろう。
この77年生まれの監督、私と同じ年!すごい人である。