
「奥州から会津へ」。
白河の関から、奥州街道は北に延びている。
その道程は、300kmにも及ぶが阿武隈川に沿って比較的なだらかな行程だ。
しかし、奥州街道から会津へ。又は、羽州街道に抜けるとなると厳しい峠越えが待っていた。白河から会津に至るには、勢至堂峠を越えていくのだが厳しい山越えとなった。そんな峠の出入り口には、必ず宿場町が存在した。通称、茨城から会津へ抜けるために茨城街道とも呼ばれている。豊臣秀吉が会津征伐に繰り出した時も、長沼城に宿営した。
長沼城は、1556(永禄9)年芦名氏の領地になり、家臣であった新国氏が城主になる。その後芦名氏が滅亡後、伊達氏に従属。その後蒲生、上杉領となる。 関が原の戦いの際、上杉景勝はここを前線基地として整備した。しかし、元和元年の一国一城令により破城されその役目を終えた。
今回は、このお話ではない。
是よりも3kほど北の守屋宿の話である。1600年代までは、この宿より会津御代宿。福良から赤津の宿へと至ったのである。この街道は、一番の近道だったのだが起伏が烈しく幾つもの尾根越えを要した。その為に、いつしか人も通わなくなってしまったのだ。しかしながら、極地に生きる地ならばこそ色々と面白い事が起るのである。宿場に泊まる旅人をもてなす○○。増してこの地にあったお寺では、どうにもならねぇ悪人ばかりを集めていたそうな。それは、説教によって悔悛させる事にあったのかも知れない。
この村を訪ねて、年寄りの方々から昔話を聞かされると、面白いお話が続々と出てくる。まさに昔話の宝庫だった。
この宿には、道すがら幾つもの石仏がある。
寛永2年頃の石塔が多くみられる。主に13夜塔なのだが、これらにお祈りしたのは殆どが女だった。今でもこれらの石仏には、お供え物が絶えた事はない。村を向けて、最終の石仏に出会うと、念仏の文字が刻まれている。軽トラック?で行ける所まで行ってみたのだが、藪の中に突入してしまった。次回は、オフロードバイクで走破するつもりだ。
■JR東北本線須賀川駅から町守屋行バス役場前下車更に徒歩20分