母が90を迎えました。

食事を作ったり、

片付けしたり、

モノを覚えたり、

出来なくなっているけど、

同じことを何度もいうけど、

自分の想いをガンと曲げず、

しっかりしているつもりの母。


私も心身ともに

色々疲れが溜まってて

あかんなーと思いつつ

イライラ。


で、キレたんですよね。


認知症だから

何も出来なくなっている自分に

辛さを感じているのは本人だからって

分かってるのに、、


猛省。


でも、家に帰り、

タッピングしていたら、


あーーー

あたしいま、

子供の頃にしたかった

親に怒りを出すこと、

NOということ、

本音をぶつけられてるんや。

と気づきました。


昔から

母は、

自分以外のひと、世界にばかり

目が行く人で、

自分が見れないひと、

人にはやんやいうのに。

いつも不安や否定で

褒めることをしない。

そんな人でした。


生い立ちもあると思います。

父が早く亡くなったのもあると思います。


しかし、私は小さい頃から

どこか私の中で母を

助けなきゃいけない人、

私が我慢して優先しないといけない人、

の位置づけをしていて、

いつも母の顔色を伺い

母の気持ち、

母の言うことを優先してきました。


反抗らしい反抗もせず

本音を言わず

常に私が助ける立場。

愚痴を聞くのもわたし。

父や兄との間を取り持つのもわたし。

家事を助けるのもわたし。

欲しいものを欲しいと言えず、

嫌だということも言えず。

母の前で怒ったり、泣いたりもしてこず。


それを50年以上続けてきて、

母の認知がどんどん低下してきて、

拍車がかかって

より、我慢が強化されてました。


そして、

主人のこともあり、

2ヶ月ぶりの実家。


心身ともに余裕がない中

掃除や食事の作り置き

バタバタしてて、

ある母の行動に


邪魔せんといて!

なんもせんといて!


と。


その時は

あ、、言うてもうた、、

けど、止まらん、

ほんま腹立つ!


で、しょんぼりした母をみて

ごめん、とは言ったけど

もやもや。


しかし、母はしばらくは

しょんぼりしてたけど

すぐ忘れる。


何もなかったように

また、一緒に話たり。


そして、夜、自宅に戻り、

ぼーっとしてたら、


ぽろぽろ涙が出てきて

タッピング。


あーわたしずっと言えなかった。


私がやることを

邪魔せんといて!

自分の考えを押し付けんといて!


その想い、

理不尽さへの怒り、

それがどんどん溢れてきて、

怒りが収まったら

涙が止まらず

しんどかった

つらかった

嫌やった

と出て来て、


最終的には

お母さんごめん、ありがとう

と言ってる自分。


なんでね、

最後ごめん、ありがとうが出たかって、


子供の頃からの

自分の本音を

ちゃんと出すことができた。

生きている母に出せた。

あー、解放できたって。


認知症になっているから

このやり取りも忘れてくれる

後々残らない。


今読んでる本が

體(からだ)からのメッセージについて

書かれているんですけど


認知症は

少しずつ體のエネルギーが離れている。

この世を去りたいと思っていても

愛する人たちが死に順応できるよう

徐々に去っていると考えられます。


と書かれていて、


あーーー

これだと思いました。


親に出せなかった想いを

我慢せず出して

後悔したり反省する

でも、それだけでなく、

自分がそうしたかったんだと

認めて受け入れる。


そうする事で、

子供の頃から持ち続けてた

親への怒り、悲しみを

解放できる時間。

解放したら最後

ごめんとありがとうが素直にでる。


親が亡くなってからも

親との関係性を嫌な感じのまま残さず、

うまく行かない事も親のせいにしたりせず、

自分の残りの人生を過ごせる。


親は最後の最期まで、

私という存在を気づかせてくれる。


タッピング知っててよかったなぁと。

相手にばかり意識を向けず

自分に意識を向けられるようになったから。

自分を観ることで自分を楽にできるから。


ほんと、

今、色々出て来ますねぇ。