私はドラマやお笑いでも、人がつらかったり、困ったりする状況が耐え難いストレスに感じてしまう。
ドラマの脚本をやっていた人間としてどうなのかと思うけれど、そうなのだからどうしようもない。
主人公がこれから傷つくと分かるとき、芸人が仕掛けにひっかかる前など、とてつもないストレスを感じて、目を背けてしまう。
子供の頃から「感受性が豊か」とか言われてたけれど、つまり「メンタルが弱い」ということを周りの大人が前向きに言ってくれていたのだと思う。
けど、けっこう生きていくのにキツイなとかんじることも多かった。
ただ、最近気づいたことがある。
現実だと、同じような場面でも、そんなにきつくないのだ。
現実で誰かがつらいとき、逆に私は強くなる。
誰かの置かれた窮地を知ると、「その人は今、どんな心情なのか」を真剣に考えると同時に客観的にものごとを捉えて、「どうすればその人にとって一番救いになるのか」を必死で考えたりしている。
そうなった理由は、おそらく学生のとき。私は自分の感情のもろさがきつくて、日常生活に支障をきたすこともあった。そこで私が取った対策は、心理学や生物学、歴史などを学ぶことだった。
知識を身に着けることで、自分に起こっていることをできるだけ客観的に、他人事のように捉えるようにしたのだ。
そうしたところで、心の負担は変わらないのだけれど、少なくとも一時的にその感情から遠ざかることができた。
もしかして、フィクションだとキツイのに、現実だと大丈夫なのは、このせいかもしれない。
もちろん誰かの窮地のために必死で考えたところで、私の力などほとんど何も役立たない。それはその人の窮地であり、その人の感情だ。
それでも、自分のなかで頑張って、その人のためにできることを考えることだけはできる。
一方、フィクションは自分がどう頑張ったところで、何も変えることはできない。テレビのなかの芸人だってそうだ。
私にできることは、いったん、その場を離れること。
それでも知る必要がある場合は、できれば結論を知ってから見る。
結論が分かれば、覚悟や客観視もしやすくなる。
「そんなのドラマの本当の面白さを楽しめないじゃないか」といわれるかもしれない。
けれど、自分が病まずに生きていくためには仕方ないのだ。人がどうであれ、自分はそれを選ぶ。
ただ、ごくたまにつらいストーリーでも、逃げずに見れるものもある。
それは、ストーリーも演出も演技も映像も、何もかもが完璧な作品。
個人的に「好み」の作品なのだろう。
それから、つらくない作りのドラマは平気で見れる。
また、つらい話でも気に入ったら、何回も何十年も繰り返し見続ける。
ドラマの素晴らしさは、言葉で直接的に伝えても響かないことを「物語」にすることで、人の心に届けられることだと思う。
個人や時代を超えて、いろんな感情や人生をお茶の間で体験できる。
だから楽しみたいけれど、この感情の弱さとは付き合っていかなければいけないので、私は自分なりの方法で楽しんでいる。
痛みや弱さはとても個人的なもので、それがどのくらいキツイことなのかは、誰かと共有することは難しいけれど、自分の人生だから「自分なりのやり方」で付き合っていくしかないのだろう。