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呉下の凡愚の住処

春秋戦国の楚国、三国志の孫呉にすべてを捧げて生きています。
現在はあまり更新していませんが、
何も持っていなかった過去の自分が想定読者でした。
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(前538年)

夏、楚子・蔡侯・陳侯・鄭伯・許男・徐子・滕子・頓子・胡子・沈子・

小邾子・宋の世子佐・淮夷、申に會す。

(春秋左氏伝より)


暴走が止まらない楚霊王、ついに会盟を主催してしまう。

参列した諸侯たちはどんな人だったのかと改めて調べると

だいたい霊王に人生破壊されてて不憫になった。

ちなみに霊王の補佐として伍子胥の祖父の伍挙がたびたび登場する。

結構直言しているので、霊王に仕えて殺されなかったことがすごい。

伍挙の息子の運命や楚荘王に仕えた伍参の来歴を考えても

伍氏についてはいろいろな仮説が思い浮かぶ。

この一族は一生おもしろいが、

春秋左氏伝において描写が最もおもしろい伍氏は伍挙だと思う。


私は伍挙がものすごく好きで、

自分を日本で最も伍挙が好きな人間の一人だと自負しています。

(たぶん子西や屈建や子玉も日本で最も好きな人間だと思います)

夢枕に立って諫言してほしくて今春ぐらいからずっと頼んでいるのですが

一度も出てきてくれたことがありません。寂しいです。


この盟において後半に名前が挙げられている国たちは

春秋左氏伝でもほとんど記載がないのですが、

もともとは周王の兄弟だった侯爵国だったり

史跡や文物で実在が確認されていたりと、

当時は確かに中華に存在していた国なんですよね。

もちろん国民がいてその国独自の文化もあっただろうけど

春秋左氏伝においては詳細は分からない。

そう考えると、この激動の時代に名前が残った(今でも有名な)

国たちって、いずれも本当に強大な勢力だったんだろうなあと

改めて思わされます。


中文版Wikipediaと百度百科を参考にしています。


楚霊王(?—前529年)

芈姓、熊氏。本名は圍(後に虔と改名)。

楚共王の次子であり、兄の楚王郏敖(熊員)を殺害して即位。

即位後の独裁的な統治で最期は反乱によって滅亡。


1. 即位前

・周景王三年(前542年):楚の宰相(令尹)に任命される

・周景王四年(前541年):兄の楚王郏敖(熊員)を殺害し、

弟の子干、子皙を追放して楚王に即位

2. 治世の主な出来事

・郏敖三年(前542年):令尹として鄭の国境に

犨、櫟、郏の三城を築き、鄭を脅かす

・楚霊王三年(前538年):諸侯を申に招集し、会盟を行う。

同年7月に呉を攻め、8月に慶封一族を滅ぼす

・楚霊王七年(前534年):豪華な宮殿「章華台」を建設し、

多数の美女を選び台に入れる

・楚霊王八年(前533年):棄疾(楚平王)に陳を滅ぼさせる

・楚霊王十年(前531年):蔡侯を宴席で酔わせて殺害。

棄疾(楚平王)に蔡国を平定させ、彼を「陳蔡公」とする

・楚霊王十一年(前530年):徐を討伐して呉を威嚇

3. 逸話

・「細腰」好み:楚霊王は細い腰の臣下を好んだため、

宮中で多くの人が飢え死にしたという逸話がある

(「楚王好細腰,宮中多餓死」)

・晏嬰との対話:楚霊王が斉の晏嬰を低身長だとからかい、

犬用の門を通らせようとした際、晏嬰は

「犬の国に使者として行ったなら犬用の門を通るが、

 楚国には相応しくない」と機転で反論

・「橘逾淮為枳」:「淮河を越えれば橘は枳になる」の故事も

晏嬰とのやり取りから生まれた

4. 滅亡

・楚霊王十二年(前529年):弟の子干、子皙、

蔡公棄疾(楚平王)が結託し反乱を起こす。

蔡公棄疾は楚霊王の子供(太子禄、王子罷敵)を殺害。

・楚霊王は大臣申亥の家に逃げ込むが、復権を諦め、

自ら首を吊って自殺。申亥は二人の娘を殉葬させた。

5. その後

・子干が王に即位するも、蔡公棄疾の策略により子干、子皙が自殺。

蔡公棄疾が楚王(平王)として即位。 


蔡霊侯(?—前531年)

姫姓、蔡氏。名は般。蔡景侯の息子で、

前542年に景侯を殺害して君主の地位を継承した。

在位 前542年―前531年の12年間。

前531年、楚霊王は申で宴会を開き、その席で蔡霊侯を誘い殺害した。


陳哀侯(?―前534年)

嬀姓、陳氏。名は弱。陳成公の息子。成公の跡を継いで君主になる。

在位 前568年―前534年の35年間。


・家族関係と後継問題

陳哀公は鄭から妻を迎え、

長姫との間に悼太子師を、少姫との間に息子の偃をもうけた。

しかし、哀公には寵愛する側室も二人おり、

長妾との間にが、少妾との間に勝が生まれた。

哀公は留を特に溺愛し、弟の司徒招に留を託して世話を任せた。

哀公が晩年病に倒れると後継者争いが勃発する。

前534年三月、司徒招は悼太子を殺し、

寵愛されていた留を太子に立てた。

これに激怒した哀公は招を殺そうとしたが、

招は兵を動員して反撃し、哀公を包囲した。

追い詰められた哀公は首を吊って死んだ。

その後、司徒招は留を陳君主として擁立した。


・楚の介入と陳滅亡

前534年四月、陳は楚に哀公の死を報告するため死者を派遣する。

しかし、陳国内で内乱が起きたことを聞いた楚霊王は

陳の使者を殺害し、王子棄疾に兵を率いさせて陳を討伐した。

混乱の中で新たに立てられた陳君主の留は鄭に逃亡。

楚軍は九月に陳を包囲し、十一月には陳を滅ぼした。

陳滅亡後、楚霊王は王子棄疾を陳公として陳に封じた。


鄭簡公(前570年-前530年)

姫姓、鄭氏。名は嘉。鄭僖公の子。在位 前566年―前530年の36年間。

父の暗殺によりわずか5歳で即位。

36年間にわたり内外の混乱に見舞われた鄭を治めた。


・5歳での即位と政権争い

簡公の即位の背景には父・鄭僖公を暗殺した

当国・子駟の権力掌握があった。

僖公を毒殺した子駟は僖公の息子の公子嘉を

君主として擁立することで自身の権力を確立した。

しかし、簡公の即位直後から公族間の政権争いが激化し、

子駟自身も子孔によって殺される。

この間、鄭は晋や楚と複雑な外交関係を築きながら

混乱を乗り切ろうとする。


・子産の登場と改革

簡公の治世12年目(前554年)、専横を極めた当国・子孔を

簡公が誅殺し、子産を上卿に任命した。

子産は賢明な政治家として鄭の改革を進め、国政を安定させた。

鄭は周辺諸国の圧力に晒されながらも

子産の手腕によって存続の道を模索する。


・外交と内政の試練

簡公は晋と楚の間で巧妙な外交を展開する。

晋との同盟を維持する一方で

楚とも友好関係を築くことで鄭の独立を保とうとしたが、

その外交政略は常に危険と隣り合わせだった。

簡公自身も晋や楚を訪問し、交渉に奔走している。


・晩年と死

晩年、簡公は楚との盟を結び諸侯との関係改善に努めたが、

前538年に病に倒れる。

その後も子産が諸侯との外交を引き継ぎ、鄭の立場を守ろうとした。

簡公36年(前530年)に死去し、

その子の寧が後を継いだ(→鄭定公)。


許悼公(?-紀元前523年)

姜姓、許氏。名は買。在位 前546年―前523年の24年間。


許悼公は即位後、晋や楚、宋、陳、鄭といった諸侯国と

同盟を結びながら国の存続を図った。

在位中、楚霊王を中心とした諸侯軍が結集し、

斉の慶封や呉を討つなど軍事活動も活発になるが、

やがて許もその闘争の渦中に巻き込まれる。


特に楚との関係は深く、楚霊王の支配下で

許は何度も遷都を余儀なくされる。

前533年には夷に、前529年には荊に、前524年には土析に遷され、 

国土が頻繁に変わる不安定な状況が続いた。


前523年夏、悼公はマラリアにかかり、

太子止が飲ませた薬で悼公が命を落とすという事件が発生。

止は晋へ亡命した。


嬴姓の国。かつては東夷集団の一つだった。

前512年、呉に滅ぼされる。



姫姓の国。周武王によって封じられた侯爵国。

初代君主は周文王の第14子で、周武王の異母弟である錯叔繡。


姫姓の国。周が商(殷)を滅ぼした後、

周武王は商の旧勢力を威圧するため、頓、沈、項、息、番、蔡、道、

蒋、曾、唐など多くの姫姓の小国を封じた。

これらの諸侯国は、西周の南方における防御の要になった。


宋代の《路史・国名記・己》によると、子爵国であり、帰姓。

帰姓は夔国から出たという。

《路史・国名記・戊》によると、おそらく楚が立てた国だという。

夔については春秋左氏伝で楚成王に滅ぼされる場面で詳細が出てくる。


姫姓の国。周文王の末子であり、

周武王の最も年下の同母弟である季載が封じられた侯爵国。

春秋時代は強大な隣国である楚に依拠していた。


小邾

曹姓、顔氏。子爵国。

商(殷)よりも昔、黄帝の後裔が邾婁という部落を建てた。

周武王が商を滅ぼした後、邾婁は諸侯国として封じられ、

と呼ばれるようになった。古都は嶧山(現在の鄒城市内)の南。

周公旦が摂政となった時期、諸侯国の勢力を削ぐために

分割統治の政策を採用した。このとき、邾武公(夷父顔)が

周室に功績を挙げたため、邾武公の次男である友を郳の地に封じた。

このため郳国とも呼ばれる。

邾国から分かれた国なので小邾と呼ばれる。


宋元公(?-紀元前517年)

子姓、宋氏。名は差。宋平公の太子。

在位 前531年—前517年の15年間。

有力氏族・華氏との抗争に明け暮れた。

前522年、華氏との人質交換による和解が崩れ、

人質を殺害して軍を派遣し、南里で華氏軍と交戦。

華氏は反乱を起こすも斉や晋、曹の援助を受けた宋軍に敗北し、

華氏一族は楚に亡命した。

前517年、晋訪問中に死去する直前、

太子栾(→宋景公)が即位する夢を見た。


淮夷

夏から春秋時代にかけて存在したとされる部族。

中国東部の黄河・淮河流域や長江・淮河一帯に居住していた

東夷部族の総称。

《竹書紀年》によると、夏の相が即位した翌年に淮夷を攻撃し、

その翌年には風夷や黄夷を攻めた。

相の七年、夷族は夏朝を訪れたという。

春秋時代には、淮夷は楚に従属した。