今朝、小3息子の登校班付き添いで
子供たちをみていた時の事。
何やら6年の班長さんに話しかけている
杖を2本ついた品の良さそうなおじいさんがいらして、
(役割上)不審な方ではないか様子を見ていると
「自分もね、戦時中●●小(息子たちの学校)に通っていたんだよ」
とニコニコ話しかけているようでした。
登校見守りが済んだあと、衝動的にもう少し戦時中のことを詳しくお伺いしたい!!
と、走っておじいさんを追いかけた私w
先の大きな公園でおじいさんを見つけたので(※直観が鋭い自分すきw)
「失礼いたします。先ほどはお話をお聞かせいただきありがとうございました。もし宜しければ戦時中のことをもう少しお聞きしても宜しいでしょうか?」
と、失礼承知でお願いすると快諾頂いたので
お話を伺いつつ一緒にゆっくり公園を散歩させて頂きました。
なんと御年92歳。耳も遠くなく、痴呆も全くない様子で
ゆっくり優しくお話し下さる、とてお素敵なおじいさんでした。
自分の備忘用に書き留めた内容を貼りますが、
緑字の部分は地域関係なしに私が驚いた内容です。
またお会い出来るといいな おじいさんありがとうございました。
メモ
K小の1期生 or 2期生で、中1の時に終戦を迎えた
当時のK小は1学年で1クラス60人超え×6組
教室がぎゅうぎゅう詰めで保護者参観などできない狭さだった
夜は電気をつけてはならず暗い中でずっと耐えていた
当時北区 東十条駅に近い崖の中に防空壕があり
そこに逃げたが、排泄物だらけでいられたものではなかった
集団疎開は可哀そうと、38歳で戦前に亡くなった
母親の故郷のある熊谷へ疎開したが
熊谷飛行場があったため空襲の標的となりすぐに北区に戻る
しかしK小学校は児童受け入れを拒否していて入れなかった
結局小学校中退のまま、卒業証書も受け取れていない
現清水坂公園あたりに陸軍の高射砲を構えていて、B29を撃ち落とそうとするも
飛距離(高さ)が足りず当たらなかった
北区立中央公園も陸軍造兵廠だったこともあり、北区は空襲の対象となる
国道122号(現北本通り)には、1階が米屋で2階が石鹸工場だった建物があり
空襲で燃えたので米と石鹸がまざった臭いがした
そこに残った焼けた米を回収して食べようとなったが、
焦げた米はまずくてとても食べられなかった
東十条商店街は空襲により火の海だった
多くの亡くなった人がいたと思うが自分自身はさほど遺体を見た記憶はない
近所の神社に遺体安置所があった
東京の空襲は酷く
(コンクリート造りの松坂屋デパートだけは残ったのを覚えている)
上野公園の西郷さん像から東京湾の海が見えるほどずっと焼け野原だった
終戦の玉音放送ラジオを聴いた時(中1)
それまで日本万歳!とえばりくさっていた町会長が
終戦の知らせを聞いた途端、戦争は元々反対していたと
手のひらを返したよう言動を変えたことで
大人は信じられないと思った