MoMAでAdrian Piperという方の作品展がありました。
その際に頭を回したことについて書いておきます。
◆異文化とイノベーション
60年代までにアメリカ、ヨーロッパではやったアートの手法としてフォーマリズムというものがあります。主義主張や表現内容よりも、表現技法、技術に注視して作品を評価しようという動きです。
アートに政治性を持たせるな。宗教性を持たせるな。アート単独として評価せよ。それがフォーマリズムの中核にあるものです。エイドリアン・パイパーはフォーマリズム最盛期に真っ向から反対の立場を取った人のようです。
彼女の論文である「モダニズムの論理」ではこんなことが書かれています。
https://www.jstor.org/stable/2932257?seq=1#page_scan_tab_contents
快い方が日本語にも訳してくれています。
http://d.hatena.ne.jp/tkayk/20120307
占有、フォーマリズム、そして西洋美術の自己認識は、その「社会的内容」を浮き彫りにする機能がある。西欧の美術は、新しく、珍しい、非伝統的な方法を用い、身近にある「社会的な意味をもつ主題」を表現する。そうした方法によって、日常性を超えて付与される意義と、歴史的、文化的なパースペクティブを用い、「社会的内容」に、息吹を吹き込む。まさしく、ダヴィッド、ドラクロワ、ジェリコー、ゴヤ、あるいはピカソの芸術は、そうした変身体験をさせるために霊感を高め、教育し、行動を起こさせる、形式の内での、身近な「社会的内容」の表現である。ヨーロッパの美術のフォーマリズムは、その社会的内容によって、伝統的に、相互に接続されている。ヨーロッパの美術の挑戦は、「主題の意義」を見る者に復活させるような、表現に富んだ革新的な方法で、形式の意匠を使うからだ。ここでの領有の計画は、本質的である。与えられた主題を異なるように知覚、概念化することの前提条件は、様々な視覚の形式が、実際に違うということにあるからだ。
まあ一種の哲学書なので、日本語にしても難しい言葉が並びますが、要はこんなことを言ってるのだと思います。
・異文化を知ろう。自分が生きている文化を知ろう。
・それぞれが混ぜ合わさると、みんなが革新的だと言えるアートが作り出される。
・革新的なアートっていうのは、同じものを違う視点で見るっていう経験をさせてくれるものなんだよね。
技術の良しあしの基準を決めてしまうと、結局良し悪しの判断材料に文化的材料が入る。そしてそれは排他的で、イノベーションがなくなる。
ゴッホが日本美術に触れ合ったように、ピカソがアフリカ美術に触れ合ったように、アートが進化するのは自分が生まれ持った環境では醸成できない何かに触れたとき。ピカソのキュビズムなんかは革新的にとらえられるけど、それはアフリカの彫刻に感銘を受けて、今の美術の形式に混ぜ合わせただけなのだと。
MoMAに展示されていたピカソのアヴィニョンの娘たち
こちらはメトロポリタン美術館に展示されていたアフリカの彫像。
目元とか輪郭とか似てる感じしますね。
エイドリアン・パイパーはアフリカ系アメリカ人として、人種差別の渦中にいた人の一人です。世の中で目にするものの大半が、自分のルーツとは違う文化で出来上がっているものに気づきました。そこでアフリカンなアートに注目するのではなく、「自分」と「他人」が関係する「接点」に注目しました。
◆異文化交流は危うい?
その異文化理解も危うい関係性で成り立っています。
サピエンス全史という本がベストセラーなので読んでみたのですが、異文化排他の歴史を極めて客観的に書いています。
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サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福
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12000年前、我々ホモサピエンスは、同系統亜種のフローレス原人、ネアンデルタール人を全滅させた、その理由が頭が良くて強かった他種族への嫉妬からだと書かれています。
人は12000年前から、嫉妬から種族をかけた戦争をしているということになります。そこから12000年で人類は歴史上でいちばん他種族を絶滅させた生き物だと言われています。
私はその本に書かれてある「分かり合うには近くなく、無視するには遠くない存在」という言葉が目を引きました。
異文化理解がイノベーションを産み、文化を先に進めることは分かっていても、アメリカにはそうじゃない大統領が選出されたりします。日本の赴任者でも、アメリカ人でも、アメリカを好き嫌い両方の感情を併せ持っています。
人類はネアンデルタール人を絶滅させて統一した後も、違いを見つけては排他の方向に動きます。集団対集団、文化対文化になった場合、個人単位の内省も難しいし、歯止めが利かなくなる。国と国に限ったことでもなく、友達、知人、隣人、夫婦にも同じようなことが言えます。
その実、エイドリアン・パイパーもこんな作品を出しています。
タイトルはPretend not to know what you know
日本語にすると「見て見ぬふり」という感じでしょうか。当時の黒人差別を明らかに攻撃的に表現されています。自分やその周りの文化が、受け入れる寛容さを失うほどに異文化が近いところにある場合、嫉妬と嫌悪が生まれます。
みんな分かりたいが、分かったようで、分からない。
知れば進歩するが受け入れるには辛い、そういう異文化や他人との関わり合いに対して、共通のルールとして法律や約束事を用意するものの、それがいかに脆くて曖昧なものかというのもわかります。異文化と混ざり合うことによるイノベーションが正の側面だとして、嫉妬と排他と戦争が負の側面ということもできるでしょう。お互いに歴史的な結果や、今起きている現状を示すことはできるけど、意図して負の側面を消す方法は、決まった方法があるわけでない。
分かり合おうと一概に言っても人間はそこまで仏じゃないし、かといって分かり合わないという選択肢はもう取れない。このテーマは人間が12000年かけて解けていない問題でもあるということです。
◆グローバルを生業にするという美味しさ
宇宙人とビジネスをしない限り、世の中で最大の異文化交流はインターナショナル、グローバルと言われるものとなるでしょう。しかし、このハードルは高い。インターネットが世界を一瞬で接近させたとしても、思ったより国際交流は深まってはいない。日本のネットは限りなく日本のネットに閉じている状態です。
一つは言語の問題もあるでしょうが、AIが発達して秒速で翻訳ができたとしても、すべての人がインターナショナルに動けると私はあまり思えず、インターナショナルは限られた人の嗜みになるのではと思っています。隣人を分かり合いたいが、排他したいともおもう。そのせめぎあいが、思ったよりしんどいということです。
自分がその場に居ながらこんな話をするのも変な話ですが、グローバルという名の付く仕事をしている人は、得てして過大評価をもらっているケースが多いと思います。同じ市場価値を持っていたとしても、グローバルと名前が付いた方が評価は高くなります。
グローバルの商売をしている人と、それをしたいができない人の差を一つ挙げるとすると、
「コミュニケーションなんて所詮、お互いが相当頑張ってようやく通じ合えるものであるということを知っているかどうか」
という点にあると思います。
対日本人でも同じなのに麻痺して見えてるだけで、隣の芝生は青そうに見えるだけで何も青くないということを、憧れも嫉妬もなく客観的に見える人間がグローバルを生業にしているように見えます。
海外で活躍する日本人は、日本においては応援しがいのある対象です。
ある種の思い込みゲームに負けている側面もあるのですが、それは、単一民族っぽく生きてきた日本が海外と関わることそのものがしんどいと思っている表れなのだと思います。そして、今後もそれは変わらなず、グローバル〇〇という仕事が、ある種のおいしい職業であり続けると予想がつきます。ま、国内を生業にする人との異文化交流に悩む、ある種のまずい職業でもあるんですけど。
海外にせよ国外にせよ、意図して起きる予想外な出来事を、憧れも嫉妬もなく人生のネタとしてしまうのが、仕事をしていくマインドセットとしては正しいあり方なんじゃないかなと思う今日この頃でした。