先日フィラデルフィアでデュシャンを見た記事を書きました。描ききれない部分もたくさんあって、今回は続編です。というか、前回は客観的に見える事、今回は自分が考えたこと編な感じです。

 

 

 

 

●デュシャンとブッダ

1850年頃から抽象画へ移行する過程の芸術家たちをアヴァンギャルドと呼んでいました。

フランス語で前衛部隊を表す軍隊の総称です。既存の芸術に挑戦する、戦いを挑む気概などを表してそう呼んでいたのですが、当時の西洋人たちにとってそれは結構ハードなことだったと思われます。

 

キリスト教で言うまでもなく一神教です。美の基準を1000年以上決められてきました。その基準を外して今までになかった基準を受け入れるにはかなりの覚悟がいる。1800年代といえばクリミア戦争。工業化と経済とナショナリズムV.S.宗教。このころの芸術活動は、ある種宗教を脱しなければいけないという風潮の中で、それが何かを捜索する活動でもありました。

 

今となっては当然の、「これもアートじゃない?」という精神は、当時のアヴァンギャルドにも完全には浸透していません。それは階段を降りる裸体No.2が批判され、泉の出品が事件であったことでもわかります。

これは「階段を降りる裸体No.3」No.2は前の記事で。違い、、、こっちの方が色白?

 

では、デュシャンがなぜ既存の基準を打破する作品を生み出せたのか。理由の一つはフランスで東洋の思想が入ってきたことに由来と思います。19世紀後半には、フランスで道教、仏教が入り込み、ちょっとしたブームになっています。岡倉天心の「東洋の理想」はどうやらこの時代フランスでベストセラーだったそうです。一元論のキリスト教と二元論の仏教の対比はよく言われていますが、あるがままに何かを受け入れるという精神は、当時は東洋ならではの思想でした。デュシャンがアヴァンギャルドとして活動する骨子となるイデオロギーは実は仏教だったという事です。

 

 

 

そう考えると、前の記事に書いたような、デュシャンが「アートそのものに特定のメッセージ性を持たせない、インパクトとそれによる鑑賞者の議論に意味を感じている」というのも、二元論っぽい響きだし納得もいきます。

 

仏教はすべてが空であると認識して、あらゆる感情を客観視することで得られる解脱した状態に至るための方法論を述べています。ゴータマシッタールタは解脱した人間であって、全知全能な神様ではないし、経典は頑張ればだれでもできるよーという、神様の教えというよりは、いわばノウハウ本と言えます。

 

デュシャンはそういう涅槃の境地に達していたかは定かではありません。しかし、芸術において何でも受け入れてみよっかというテストをしている、結局のところデュシャンの作品とは、物事を二元論、多元的に見てみようかという誘いであるのだと思います。

仏教徒的に忠実に作品を見るとすると、もしかしたら、鑑賞者としての営みは、たまたま通りがかった泉に対して「ふーん。」ぐらいで通り過ぎるのが良いのかもしれないですね。

 

茶の湯で有名な岡倉天心。元祖国際人。新渡戸稲造の武士道、内村鑑三の代表的日本人。日本に興味のある外国人が読む教養本。

 

 

 

・・・と言いつつ、解脱して涅槃の境地に至れる人なんてこの世に100人に一人もません。

でも、涅槃の境地で作品を見てみようとしても一般人には無理な話です。

不謹慎じゃねーの?とかありがたやーとか、オーケーよくわからん。とかセンセーショナルなインパクトと一般常識に対してかけ離れた作品を見ると何かしら感情を持ってしまうのが人間の常です。

だからデュシャンは100年たった今でも問題作であり続けるのだと思うわけです。

 

 

 

 

 

 

●メディアアートの有機化とメンタルアプローチ

 

昨今のメディアアートは特にインタラクティブであるという傾向があります。ある一定の装置やシステムがあって、それに合うように人間側が適合していくのではなく、人間の行動に従って、鑑賞者のやりたい事をソフトウェアが適合して実現していくという流れです。

 

インタラクティブ性のあるメディアアートの行く先は、これまでのアートとはそのアプローチが全く逆に見えます。仏教やアートの営みがそうであるように、何が美であるかというのは個人によって千差万別の時代です。宗教が決めるものでもなければ、国や地域、親が決めるものでさえなく、集約されるのは個人です。だったら、一つの固定のアートに対して鑑賞者が集まって「作者の意図は何か?」と考える逆のアプローチ、「自分の意図は何か?」を問いながら、それによって自分でアートを作り上げるその装置であるという形になると思います。

現在のメディアアートは、無機物によるある種の異世界感を表現していることが多いですが、メディアアートは実は有機的に変化していく方向にあります。

 

 

rain roomという展示。雨が降っているのに人を察知してそこだけ雨が止むようにできている。

 

もう一点、重要な要素として、科学が精神活動についてアプローチしているという流れがあります。

すでに臓器はここ十数年で替えが利くようになり、AIが人間を模すように作られ始め、遺伝子や脳が解析され、動物はクローンが誕生しています。身体の快適性についてはすでに掘りつくしているぐらいです。

 

 

今のところは身振り手振りや体の動きに合わせてアクションが変わるメディアアートがほぼ全てだった。今後起こりうる先は、人間の精神活動によってインタラクティブに変わるアートになる可能性があります。

もうデュシャンの言ってることはどういう事なんだろうという頭を悩ませずに済むわけです。なぜならデュシャンに合わせる必要もなくアートが自分に寄り添う形になるからです。デュシャンの泉は変幻自在に形を変え、その人にとっての泉の観念が一番浸透する作品に変化します。それも自分が欲しいときに欲しいタイミングで。

 

 

 

今のところこういった近未来を描くSF映画は、その多くがディストピアとして描かれています。それは人間の知的好奇心と進化する行先について涅槃の状態でいられず、拒否反応を抱いてしまうからだと思います。所詮未来のことは分からないし、予想はたいていはずれるものです。空飛ぶ自動車も惑星コロニーもできていないが、その代わりにインターネットが生まれたりしています。今後もSF映画が未来をそのまんまピッタリ当てるなんてことはないと思います。ですが出来れば未知の未来についてはポジティブな面でとらえたいものです。

 

不器用な人間と不器用なAIの関係。こういうの多い。おそらくAIはもっと器用になるはず。もしかしたら不器用なAIを人間が欲しているのを察して、AI自ら不器用にしているかもしれない。

 

 

 

しかし、確実にいやーな側面もあります。ライゾマティクスの真鍋さんと学生との対話の内容です。

「今の科学が理論上進化すると、脳の分泌物や精神活動が科学的に理解され、AIによる分析がもっと精密にハイスピードに処理が可能にります。そうすると、人間の情報のほとんどがデータベースに突っ込まれることになります。では、逆に渡したくない情報は何かというお話です。例えば、どういうセックスをすれば自分はどういう快楽を得るのかというシステムがあったとして、自分の情報をデータベースに入れたいと思いますか?」

 

 

真鍋さんに質問された女子大生は、この時、秘匿性が担保されればYesと答えています。知的好奇心から考えるとそれはYesであるが、現実になった場合果たして何人の人間がYesと答えるでしょうか。個人主義の広がりと一緒にプライバシーも広がりを見せています。果たして今まで以上にシステムに情報を載せてよいのか。エロ動画の閲覧履歴ぐらいにとどめておくべきなのかもしれないですね。

 

デュシャンの遺作。「(1)落下する水、(2)照明用ガス、が与えられたとせよ」ドアから穴を除くとこんな光景が見える。

プライバシーとそれを見たい人の欲求を表しているものかもしれない。

 

 

 

 

●アートが市場に認められること

デュシャンは表現者と鑑賞者との関係について、こんなことを言っています。

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ある天才がアフリカのどまんなかに住んでいるとして、どんなに毎日、すごい絵を描いていようとも、誰もその絵を見ないとすれば、そんな天才はいないことになるでしょう。言い換えれば、人に知られてはじめて、芸術家は存在するのです。芸術家は何かをつくる。そしてある日、大衆の介入によって、彼は認められる。そうして、彼は後世にも名を残すことになるのです。この事実を無視することはできません。つまり、認められ、尊敬されるために必要なことをする術を知らなかったが故に消えていく天才の存在もいるわけです。芸術は2つの極によって生み出されるのです。作品をつくる者という極があり、それを見るものという極があります。芸術家が重要と思われますが、実は作品を作る者と同じだけの重要性を作品を見るものにも与えるのです。

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デュシャンは作品を評価してくれる人が大勢いるという点で自分は運が良かったと言っています。

 

では、今2018年でのアートに対する鑑賞者との関係はどうでしょうか。総じていうと美術館の展覧会におけるアートの価値は実は下がっているように見えます。富裕層の高額な買い物や投資対象としてのアートは別にとらえると、それはデュシャンの頃100~200年前と比べると、その人数と影響度は減少していると思います。

 

デュシャンはこうも話しています。

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本当に重要な価値があるものというのは、実に一生のあいだに4つか5つくらいしかないものです。あとの残りは、日毎の時間つぶしでしかありません。一般的に言って、この4つか5つのものは、それが現れたときには、人びとにショックを与えています。「アヴィニョンの娘たち」にしろ「グランド・ジャット島の日曜日の午後」にしろ、それは常にショックな作品だったのです。私がショックというのは、こういう意味なのであって、というのも、ルノワールのすべての絵を、またスーラであってもそのすべての絵を見に行きたいとはまったく思いもしないからです。こうした法則を、私はすべての芸術家に適用します。

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日本の美術館来館者数は多いと言われていますが、今の自分を振り返って一生の間に4つか5つしかない本当に重要な価値のあるものに、アートが入る人がどれだけいるでしょうか。今を生きる人にとって、アートが観光のためのモニュメント、井戸端会議の話題稼ぎ以上の価値を感じている人間がどれほどいるでしょうか。

 

 

アートはマネタイズが難しいといわれます。なぜでしょうか。

一生の間に4つか5つしかないショックのある事件としてでなくとも、確実に多くの鑑賞者を呼び寄せその人の心を掴んで離さない何かを提供している人や創作物は存在します。それは得てして絵画や彫刻ではなく、映像と音楽です。絵画や彫刻に比べて後発だが情報量は抜群に多く、心に訴えやすいかもしれません。

 

しかし、歴史という観点で言うと、文学は昔からそのスタイルを変えずに、絶えず人の心を動かし、なおかつ市場価値もキープし続けています。漫画もこの部類に入れるとすると、拡大すらしています。

 

また、それはアートなのか?と言われそうですが、テレビのCMや広告ポスター、デザインは極めて市場価値の高いアートの変形型だともいえるでしょう。

では、音楽や映画、文学は誰もがダウンロードする時代に、絵画や彫刻がダウンロードされないのはなぜでしょうか。絵画はPCの壁紙としている人はなかなかいません。

 

 

 

 

アート、美術はほかの創作物に比べて、なぜこんなに一般人から遠ざかってしまったのでしょうか。その理由の一つが、デュシャンが泉を出したことによるアーティストへの宿題が解けていない、という事にあるのではないかと思っています。

そしてその宿題とは「アートは哲学的なイノベーションをもたらさなければならない」というものです。

 

 

 

 

絵画や彫刻が抽象化に踏み出し、デュシャンである種のゴールにたどり着くまでのその50~100年は、確実に絵画が人々をワクワクさせるものであったと思います。次はどういう事が起きるのか、常識を覆すような作品はいつ発生するのか。鑑賞者はその高揚感を持ちながらその作品を待っていたはずです。

 

 

 

その歴史があるために、よく言えば多くの鑑賞者に寄り添うような、使い捨てに近い作品は作れないのです。アートは社会や人の人生に大きく影響を与えるような、センセーショナルな創作物でなくてはならないという縛りを自らに与えており、市場に寄り添えない。

 

 

デザインや広告がアートの分類から外れるのは、デザイナーは市場や顧客に寄り添うが、アーティストは市場に寄り添ってはいけないという、線引きともいえます。その結果アートは、デュシャン以前の歴史を伝える観光資源として以上の価値をなくしてしまい、そして、その昔センセーショナルな事件があったと歴史を懐古する場所として美術館が存在しているといえる。アートが小難しい人を寄せ付けない性質を帯びているのは、歴史上持ってしまった悲しい性のせいかもしれません。

 

クラスの中で誰とも話をしない孤高の同級生、私にとってアートとはそういうイメージです。

アンディ・ウォーホルの作品。もしかすると、デュシャンがいなければ、ウォーホルやバスキアはもっと事件として評価されていたかもしれない。

 

 

 

しかし、だからこそ、それがアートを期待して応援したくなる側面でもあります。

昔は一世を風靡したと懐古しながら細く長く生き残ることを優先した表現手法になるのか、再び人々の注目を集める事件を巻き起こせるのか。後者の期待があるからこそ、今日も現代アートが世界各地に並んでいます。

 

 

デュシャンの宿題は、表現者がいて鑑賞者がいる以外、ノールールです。

科学は生活の便利さを追求するところから、精神性について追及することにシフトし始めています。アートが人の心に一生ついて離さない創作物になる素地はあるはずです。

 

 

アートが100年ぶりに事件を巻き起こすのを私は楽しみにしています。

 

 

 

P.S.

最後に、レオンフレデリックのsource of lifeを。アートとアーティストはこんな感じであってほしいと思いつつ。