前回の記事では、この本に興味あるけど手がつかない人へのコメントを書くことで、中村文則という人は何を書こうとしているのかというのを解釈してみました。
 

今回の記事では、極めて私の個人軸で、中村文則が2014年に教団Xを出した意味を考えつつ、今後何を期待し何を考えるべきかを書こうと思います。


■根こそぎ奪い去る
教団Xの楢崎は、現代の人なので、宗教というものの功罪をすべて知っているにもかかわらず、何が起きても自分の人生は悪いままだという自己評価の低さとこの世界への期待の低さから、自分から巻き込まれ、得体のしれない渦中の人になっていくところから始まります。
 

この状態が現代を象徴しているかのようです。
世界と自分に何の期待も持てなくなった現代に至る背景を考えてみます。


 

 

今や大分遡らないといけなくなった90年代、私が中高生のころ。
羊たちの沈黙に始まり、ドラマではケイゾクがあり、アニメではエヴァンゲリオンがあり。漫画ではサイコがはやり。
実世界では阪神大震災があり、オウム真理教があり、ストーカーという言葉が世の中に出回った年代です。とくにメンタルに異常をきたす人間が、乱暴に言えばポピュラーになった時代だとも言えます。

経済状態は失われた10年の真っ最中で、氷河期、不良債権、倒産などなど。
物語の中で語られた異常事態が現実に自分の生活圏を脅かす危機感、あり得ないと思った出来事はあり得る。いつ自分が足を踏み外すかわからないし、世界に飛び出そうと思っても沼しか見えない。
シンジ君の「逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ」が象徴するような、そんな年代でした。




大学に入り、社会人になった00年代のころ。
映画ではちょうどそのあたりでバトルロワイヤルが出てきて。映画のGOもこの時期です。自殺サークルとかスクリームとか、とにかく人がどんどん死ぬ映画が多かった。

 

それと同時に宮藤官九郎が出てきて。その他にも、世界の中心で愛を叫んだり、今会いに行ったり。異常なことは周りで当然のように起こるけど、それをゆるく優しく関わっていけばいいんじゃん。という世界とのかかわり方の方法を提示する作品も現れました。

 

 

実世界では、ITバブルがあり、ベンチャー企業という言葉がメジャーになります。私の周りでも何人もが起業という言葉を口にし、何人かは実際に起業にこぎつけました。
 

不安定な問題は野心を持って開拓して解決し、尖がるものである。何が正解かわからないけど、目の前のものは戦って獲る。というのが空気を支配していました。会社の隣の本屋で勝間和代がゴリゴリのノウハウ本を売り始めたのは00年代後半だと思います。






しかし、07年、08年あたりからネガティブな作品が徐々に舞い戻ります。
映画ではダークナイトライジング、バードマン、her。アニメでは、あの花、まどかマギカ、進撃の巨人、Psyco-Pass。んで教団X、火花が出てきて今に至る感じです。

 

また、震災以前以後に何かが変わったという話は、使い果たされるぐらい使われているのですが、これを起点に何かを諦めた人を明らかに周りでよく見ました。
ギターでプロをと思ったがあきらめた人。転職を諦めた人。独立を諦めた人。震災はただの契機であって、花粉症のようなコップの水理論が正しいようにも見えます。2010年前後数年でたまっていたフラストレーションが徐々に決壊を越えたような。

 

世界は変わらないから自分たちを変えるという言葉はだれもが使いますが、結局はだれもが思ったように変われていない。00年代にうまく行き始めたものが、嘘だったり大きく計算違いしていたり。失われた10年は気が付いたら20年に変わっていたり。
 

 

インターネットは世界をちょっとだけ便利にした。人間をちょっとだけ雑学に詳しくした。でもグローバル化も大してしてない。世界は分かりあえてない。トランプ大統領。給料上がらない。ブラック企業。芸能人は不倫する、炎上する、入信する。


「全然良くなってないじゃん!!」

 

というフラストレーションが爆発したかのようです。
賞レースの作品の構成として、艱難辛苦9割、希望1割という形が多い。
上に挙げた物語のどれもが、ボロボロになる主人公、しかし這い上がろうとする主人公、光はかすかにしか見えないけど。しかし希望だけは捨てちゃだめだ。そんな感じ。



阪神大震災は社会の根幹をポキッと折り、東日本大震災は個人の根幹をポキッと折ったように私には見えました。
そして教団Xという本は、その「全然良くなってないじゃん!!!」を物語にした本だと、私は思います。我々の90年代と00年代のちゃぶ台を根こそぎひっくり返すような。

 

 

世界はあなたが思うより複雑です。あなたもあなたが思うより複雑です。あなたの脳みそでは複雑で回答は出せません。

で、どうするんですか?
 

 

教団Xという本が語っている根本はこれ。これが我々が直視するべき現状で、のめりこんで直視しろと言っているのです。

最後、この本がどのような結論をこの小説が出すかは、、、、読んでみましょう。






■タイムリープとトライアンドエラー
と、絶望したところで、ここからどうしようと。見ないふりをせずに直視して考えたら、何となく希望は持てるものです。
私の場合、新海誠の君の名は、三部けいの僕だけがいない街に希望をもつことにしています。共通点はタイムリープです。


タイムリープ系のストーリーは、作品構造に共通点があります。

不幸があり、タイムリープし、不幸を避けようと思うが思うが変えられない。無限に不幸を繰り返しつつ、最終的に大事な人に忘れられるが世界は平和、本人も半身えぐられるような犠牲の上でそれに気づかずに世界は平和(?)になる。そういう展開になります。
 

 

その昔Primerというサンダンスを取った映画、バタフライエフェクト、アニメではシュタインズ・ゲートなど、単館映画や界隈では有名なアニメでしかなかったタイムリープ。まどかマギカもじわじわ有名になったものの、上の2作品ほどに万人に見られるものではなかったと思います。

 

まどかマギカが興行収入6億円だったのに対し、君の名はに至っては270億円です。ざっくり1人1500円で考えると180万回見られている。まどかマギカの45倍です。
 

 

 

では、なぜこの定型ストーリーがいきなり評価されたのか。

このタイムリープがこのタイミングで一般人への市民権を得たのは、ある種の「学び」に希望を感じているのではないかと考えています。


 

人間も世界も複雑で、テクノロジーがそれを解明するごとに頭で公式を解くように回答は見出すことはできない。
しかし、トライアンドエラーはできる。何が原因かは分からないが、少なくとも自分の良い悪いは分かり、悪かった分析と微調整、良かった分析とその保持はできる。現実は絶望的ではあるものの、トライアンドエラーの果てに何か良い未来があるかもしれない。人間がそれを感じられるかはわからないけど。そういう人々の願望がこの認知度と視聴回数に表れているんじゃないかと思うのです。


 

 

 

最近何かと話題なAIも、結局はこの学習を人間が考えられないスピードで何万回もシミュレーションしてくれます。実はこのAIの計算方式はそれまでのコンピュータと少し違っています。これまでは場合の数と確率で当たり計算をしていたのが、人間の脳を模すために、間違えたらちょっとずつ微調整をかけていくという計算方式に変化しています。そうする方が現実世界との整合性が高いとみられ、今こうしてブームになっています。人間が君の名はに見出したタイムリープとトライアンドエラーは、AIの計算速度も伴って、今より高い確率で良い未来に導くことができるかもしれません。




 

■本当に絶望する前に

 

絶望したところで未来は始まらないけれど、見ないふりをしているだけでは絶望が訪れる時間が緩やかになるだけで、いずれ本人が自覚することになります。
それが本の上でなく現実になってしまった後に、立ち上がれないほど打ちのめされたり、誰かのせいにしたり、考察もなく藁にも縋る思いでつかんだその先が得体のしれない宗教であるその前に、こういったディストピアな小説を読みつつ、どう行動すればよいのかに頭を巡らせる。教団Xのようなディストピア作品を見るの利点の一つはここにあるのだと思います。










■余談:自己表現について
読了直後に私が感じた最初の感情は、「絶望」ではなく「嫉妬と焦燥」でした。
中村文則が自分の集大成ですと語り、傑作を作ろうと語り出来上がった作品。いわば自分の善悪を含めたすべての思考を一般市民にさらけ出しています。

 


私が同じ立場であれば、丸裸の自分を見られる恥ずかしさ、それが他人に認められないのではないかという怖さ、知識の浅はかさを問われたり、本筋でないところを上げられる不本意、そんなことを考えてしまいます。
それが、出した結果問題作と呼ばれ、大作と呼ばれ、わかってくれる多数の人から絶賛を受け、多くの人が自分の作品について議論の対象にしている。

 

 

この人は全部さらけ出す意思と、書き上げるまでの忍耐力、それを世に出せてしまう、いわば一線を越えられるのかと、羨ましく思い、同時に悔しいと思う。というのが最初の感情でした。



世界にその回答はなく、天才はいないとした場合、常人ならざる自己表現は、たくさんの自己内対話と大量の情報のインプット、自分と問題と作品に正直であること、これらの学びと修正の連続でなりたっている。

だとすると、それを行動するまで突き動かす提供者側の原動力とはいったい何なのだろう。



田口ランディは、文章を書かないというのは、ずっとうんちを我慢しているようなもんだと。そういう本能的な何かが文章を書かせているのだと以前blogで書いていました。
宮部みゆきは、職業人としてたとえ売れなくても文章を書くという覚悟が小説家には問われると話していました。
中村文則が本能で書いているのか、情動で書いているのか、プロの戦略として書いているのか、そのすべてなのか。

 

 

どちらにしても、これを読んだ直後の私の嫉妬と焦燥は「何か表現しなければ。考えなければ。」という、そわそわした感情でした。そうして結局こんな長文を書いてしまっているわけですが、これもこの教団Xを読んだ一つの副作用なのかもしれません。