別のSNSに乗せていた去年9月の文章を転送します。

ペルーの旅行とは趣旨の違う文章ですが、後で別に旅行記として書いてみようかなと思っていますので。

 

私の曽祖父は1908年に移民としてペルーのパラモンガと言う場所で働き始めました。
当初のペルーは奴隷解放間もないところで労働力が不足しており、代わりの人間として主に山口、広島から募集されたそうです。
アシエンダというプランテーション農業制度で、労働環境としては奴隷制度と変わらない劣悪な環境だったと言われています。
 

 

 

 

そこで5年間の契約を終えて、アレキパという都市で倒産した商社の事業を一部買い取り、輸入雑貨の商売を始めました。
そこで祖母が生まれ、祖父が養子としてアレキパに渡りました。日本からの移民を集めてペルー日本人会を作り、曽祖父はアレキパ支部の初代支部長だったそうです。
 

 

 

祖母の姉妹の学校などで日本に一時帰国、曽祖父、祖父はアレキパに戻り、祖母たちの学業がひと段落する頃にまたアレキパで暮らそうとしていたようです。
しかし1937年に曽祖父は他界、1941年の太平洋戦争をきっかけに祖父も日本に戻りました。生前に祖父はその話をしてくれていました。
開戦後ペルー在住の日本人への弾圧が酷かったため、日本に戻るのが1年遅れていたら、祖父も生きて本に戻れるか分からなかったと。







曽祖父が亡くなった時に、祖父は100年の管理で墓地と契約しましたが、祖父はアレキパに戻る事なく15年前に他界しました。 
もはや誰も実家や墓地の場所を知らない状態でしたが、10年前に伯父がペルー日本人会に問い合わせて調査、その場所を見つけ、訪問。そして10年経った今、伯父の口伝を元にGoogle mapで墓地の大まかな位置を割り出し、こうして私がアレキパの街に来れたという顛末です。
 
 

 




今回自分が血を継いだ先人達が、どういう生活をしていたのか想いを馳せる為に、地球の裏側まで来れたこと、他の誰でもない自分の家系にしか感じられない血脈を感じられたこと、簡単に一言で言うと、感慨深い。という感じになるでしょうか。
言葉足らずで表現できない感覚が全身を包みます。
 







少なくとも私が好きだった祖父が、遊びに行くと毎度フランスパンと紅茶でもてなしてくれて、スペイン語、英語も堪能で、畑で作った野菜が美味しくて、年末には家族で餅をついて、いつも凛としてぶれない気丈な祖父がずっと大事にしていたアレキパに、没後時間が経ちましたが代わりに来ることができて。次に山口に戻った時に祖父の墓前で自慢して報告するネタが出来たなと。ちょっと嬉しいような誇らしいような。でも、そういう一番報告したい相手が既に亡くなっているのは、やっぱり寂しいような。
 








 
祖父からは日本からアレキパへは片道3ヶ月の船旅だったと話していました。飛行機とUberであっさり着いて墓を探せてしまうのも、仕事の合間の夏休みで何気なく曾孫が墓の前にひょっこり顔を出すというのも、80年前には想像も出来てなかったかもしれません。ましてや当時やっていた店の目の前で、ポケットモンスターが捕獲出来るなんて。80年という年月はそれだけ世界をまるっと変えてしまう時間でもあります。







ですが変わっていない世界もちゃんと存在していて。アレキパは京都のように町自体が文化遺産となっている風光明媚な場所で、古くから建てられた石造りの建物がそのまま残っていました。曽祖父、祖父母が店を開いていた場所もその区域で、実際に雑貨屋をやっていたその住所に行ってみると、建物は80年前そのままの構造で、今は軽食やさんになっていました。おそらく日々食べ物を買っていたであろう市場も、その雰囲気を残していました。
  





あと20年で曽祖父の墓は維持されなくなります。代々厳格に受け継ぐにしてはハードルは高いし、先人から求められても無いだろうし。でも、伯父と話して共通したのが、「ま、そういう歴史を知ってしまったからには、やれる限りは守ってあげたいよね。」という事でした。墓を維持するとか手法は決めてませんが、例えば法事なんかのタイミングでこのエピソードを話してあげるとか、誰かを連れてペルーに行ってみるとか。こうしてFacebookに長々と長文を書き綴るのも、ちょっとした「守る」というやり方になればいいなと思って、10年ぶりぐらいにブロガーみたいな事をやってみています。こういう物語があったんだよということは、残しておいても良いんじゃないかと。
日本とペルーの関係性は、よくなったり悪くなったりを繰り返しています。戦後もフジモリ大統領の就任、失脚など、ペルー人の日本に対する感情も。ただ何より今回泊めていただいた日本人宿の桜子さん、サンドラのいえなど、日本人がふらっと現れても安心して、なおかつ楽しい出会いのある宿があったり、草の根の中ではペルーと日本が友好的になれるように努力されている方はたくさんいることがわかりました。
 






この80年でペルーと日本の関係という因果関係でなく、人為的かそうでないかによらず、いろいろなものが少しずつ変わっていき、いろいろなものが変わらずに残っています。


国が変わり、都市が変わり、人が変わって、エピソードも変わる。その代わり国が残る、都市が残る、人が残る、ストーリーが残る。


何を変えて何が残すかなんて、期待通りには行かないものだし、親とか子供とか血筋が生活スタイルを縛るのも、なんかちょっと違う気がする。なので、このストーリーが遺伝子として体の中にある自分が、どうこれからを過ごしていくか。
 
 

 

 





なんて書くのが一番いいのかね?って思いながら飛行機で適当にググっていたら、タナソウさんがいいこと言ってました。
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クリアケースを開けると、メッセージが隠されていて、そこには「i like you. I like you. you are a wonderful person. i’m full of enthusiasm. i’m going places. i’ll be happy to help you. i am an important person. would you like to come home with me?」と書かれていました。 
つまり、どこにも悪意なんてない。ただ誰もが慎ましやかな幸福を感じたいだけ。でも、それを追い求めることがいろんな惨劇や悲劇に繋がってる。この世界ではどこかに一握りの悪の専制君主がいるわけではなくて、誰もが罪を犯してるんだという認識。でも、あなたにそれをどんな風に伝えるべきなのか、わからない。もしかしたら、伝えない方がいいのかもしれない――あのメッセージはそういうことだと思うんですよ。俺とかはすぐに『朝鮮戦争やベトナム戦争の犠牲があったからこそ、日本は復興したんだ。俺たち誰もが人殺しなんだよ』とか言っちゃうけど、彼らにはそれをダイレクトに言うような冷血さはなかった。自分たちがやってることは明らかにおかしい。『でも、できれば一緒にホームに帰りたいんだ』っていう。これほど切実なメッセージはないと思う
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私が家族とか血筋とかそういう物に関して思うこと。こういう感じです。