鏡の国でステップ

鏡の国でステップ

鏡の間に足を踏み入れると、
違う自分が見えてくる。
いけないことを考えている自分が
どこかにいそうだ。
鏡の間。
ぼくはフィットネススタジオに通っている。
電車の窓。トンネルに入ると、
窓に自分が映る。
雨あがりの水たまり。
前世。それとも…。

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瀬戸内のとある島の話だ。
太平洋戦争の前と後で運命が変わってしまった二つの家のことを話そう。


島の中心に位置する場所に一軒の家がある。
農家だが、島を領地とする武家の分家で大きな土地を持っていた。
島では有数の資産家だった。
何代目になるのか知らないが、秀才が出た。
高等学校を卒業した時、高文に合格した。
今の国家公務員上級試験に当たる。
帝国大学に入る前だから、相当な秀才だ。
高級官僚になれたのだが、跡継ぎだから東京にとどまることができなかった。

結婚もこの人の人生を左右する。
この人に嫁いできた人は、なかなか子供ができなかった。
できても女の子で、死産の子も女だった。
女人高野にこもり、男子の誕生を願った。
そのせいだろう。
長男を授かったが、自分の命と引き換えてしまう。
秀才の父親は育てる自信がなくて、後妻をもらった。
その人は多産系の女だった。
自分の子を大事にして、長男をのけ者にした。
よくある話だ。
太平洋戦争が終わって、家は農地解放で財産を失い、零落してしまう。
後妻の子供たちは生計を求め島を出る。
子供の時に熱病を患った知恵おくれの末弟が墓を守った。
後妻が猫かわいがりしていた男の子が定年退職で家に戻ってきた。
その人の妻が庭一面を花に咲き乱れる家にした。
墓守の末弟は隠居所をあてがわれた。
大きな昔の門だけが往時の思い出でしかない。


もう一軒の家は豊かな港町にある。
遠い昔は染物屋だった。
商才のある家だった。
問屋を営み、町に送る海産物と島の農地に送る飼料を商うようになった。

子だくさんの家だった。
家長が肺病で亡くなった。
一番上の女の子が兄弟たちのために、学校をやめて家を支えた。
戦争が始まって、長兄が出征した。
次兄も続いた。
三男は戦争に行かなかった。
弾が怖くて逃げ回っていた。
でも船に乗って働かされた。
長兄は出征前に結婚して、嫁が家に来ていた。
戦争に行った二人は戦死する。
嫁は郷に帰ろうとするが、家を守っている姑が引き留めた。
「三男が戻ってきたら、その嫁になればいい」
戦争が終わった。
みんな姑の言う通りにした。
三男は長兄の妻を娶った。
姑は女ながら金儲けのうまい人だった。
三男に指図して、儲けをすべて土地にした。
三男は事業欲の旺盛な人だった。
戦後の復興期に建築資材を運び大儲けをし、手がけたブロイラーは阪神間の人口爆発で大当たりとなり、事業は拡大の一途となる。
港町から出て、国道沿いに家を構えた。
プールつきのお城で、観光バスが見物のために止まるほどだった。
島は金持ちになる人があがめられる。
三男はとにかく稼ぎまくった。
晩年、自分の城よりも立派な老人ホームを建てて、尊敬される人になった。


私はこの二軒の家の血を引いている。
戦前の旧家の方は父方。
家を追い出された長男が私の父である。
母は大金持ちになった三男のすぐ上の姉だ。

三日前、私はこの島に立ち寄った。
国道沿いを走っていたら、山が梅の花で埋め尽くされている所があった。
梅まつりの会場だった。
私は吸い込まれるように道をそれて、そこに上っていった。
テントの中から声をかけられた。
じいさんばあさんがすずなりだった。
興味津々の顔を私に向けている。
「横浜からわざわざ」
「元々はこの島です。父方は○○、母方は△△」
「へえ、誰。なんていう家」
父方の住所と名前を言うと、テントの中で互いに顔を見合わせて「ああ、あれだ」という目をした。
母方の名前を言うと、膝を乗り出してきて「島で一番のお金持ちの△△さんじゃ」
まるで私が縁者であるかのように、にこにこした顔を一斉に向けてきた。
どことなく他人でも見るようなさめた目と、温かなまなざし。
父祖の地に立って、私は奇妙な空気の中に居た。


都会ではありもしないことだが、ここには先祖の霊が幾重にも濃密に層をなしている。
仏壇だったり、井戸だったり、それぞれ違っていても、古い家にはいじってはならないものがある。
黒ずんでいる。
元々日本では代々長男が家を継ぐものだった。
この島ではとくにそれが強かった。
それは墓守として祖霊を祀ることを意味している。
島は閉じ込められた小さな箱庭のような世界だ。
長男だけが残り、あとの兄弟は島を出るのが掟のようなものだった。
島で養える人の数はしれていた。
でも出て行った人の胸には、いつも島があった。
誇りと言い換えてもいい。
「いつかひとかどの人物となって名を成し、一族の誇りとなろう」
そう決意して港を出ていく。
この島から大人物と賞賛される人が輩出しているのは、その誇りがあるからだろう。
帰ることはなくても、自分は島の人間だと思っている。
追い出されたわけではないから、胸を張っている。
島に残る者、つまり長男はその誇りの根っこにあたる。


父方の家の間違いは、その役目を負った父を追い出したことにある。
祖霊たちが見放したことで、家運をとだえさせてしまった。
見事なほど何もない家にしてしまった。
農地解放という歴史の潮目が凋落の原因ではあるが、結果として顧みる家でなくなった。
一方、栄えた家になった母方。

祖母の言葉を守った三男に、祖霊たちが応援したに違いない。
テントの中に居た古老たちの表情は、祖霊たちの魂が寄り添ってそうさせているように思えた。


話は続く。
母方の三男と妻にした兄嫁は仲がよくなかった。
言い方は悪いが、三男にしてみれば、長男のお古だったわけだ。
愛情が持てなかったに違いない。
彼は愛人を作る。
隠し子もいたという。
女は添い遂げられない絶望のあまり、海に身を投げた。
死にきれなかったけれど。

家業を隆盛させた三男の妻。

兄の妻だったから夫よりはるかに年上だった。

彼女は嫉妬に苦しんでいた。

私の母をはじめ一族はみんな彼女を大事にしていたが、病気の果てに最期は廃人になっていた。


家を追い出された私の父は、いつも島を思っていた。

忍耐強い人だったが、一年にほんの何度か何を思ったのか荒れる人だった。

身の回りの物を手当たり次第に壊した。
父の姉は、父を追い出した継母を憎んでいた。
父の葬式の日、彼女は必死に叫んでいた。
「○ちゃん(私の父の名前)が居たことを忘れてはいかん。孫にもそのまた子供にも語り伝えていかにゃいかん」

手押し車を握りしめ、地団太踏んでいた。
これらは愛憎に翻弄された人々の話。
梅林に張られたテントの中の古老たちは、およそのことは分かっているみたいだった。
その人たちも居なくなれば、すべては霧のように消えるだけだろう。


島に今は橋が架かって、本土の一部になった。
観光客が阪神間からどっと繰り出してくる。
出ていくだけだった島に人が来る。
それでも地方の現実通りに、ここでも過疎がむしばんでいる。
守っていたものが少しずつ消えていく。
黒ずんでいたものもなくなって、すべてが薄くなっていく。


私の胸の中は違う。

身を投げようとした叔父の女と、憎悪をあらわにした伯母のこと。

二つが黒く渦巻いている。