三鷹下連雀を守る...八幡大神社♪ | みたか 鷹場そば

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八幡大神社 (はちまんだいじんじゃ)

御祭神  応神天皇〔おうじんてんのう〕

通称    三鷹八幡大神社

鎮座地  東京都三鷹市下連雀四丁目18-23 

創建年代 寛文4年(1664)

社格等   旧村社

由緒    旧下連雀村(現・三鷹市下連雀)の鎮守である。
       明暦3年(1657)の振袖大火の後、

       神田連雀町の一部の住民が替え地

       として当地を与えられ、農民となって

       新田を開発することとなり、連雀新田と名付けた。

        これが現在の下連雀の起こりである。
        寛文4年(1664年)名主の松井治兵衛

        村の年寄・組頭らと連署で神社と

        寺の創建について幕府に誓願した。

        これに対して老中・松平伊豆守と

        寺社奉行・石谷将監は代官・野村彦太夫に

        検地を命じ、社地1万坪と寺地2万坪を

        除地として寺社の建立を許可した。

        そこで、八幡社を創建するとともに、

        築地本願寺より松之坊を迎えた。

        後に松之坊は退転し、

        黄檗宗禅林寺が開かれている。
        明治の神仏分離によって八幡大神社は独立し、

        明治6年(1873)村社に列された。
        例祭に渡御する2基の神輿のうち、

        二之宮神輿・屋根の鳳凰の目は

        3カラットのダイヤモンドで、

       1994年版のギネスブックに

       日本一のダイヤモンドとして掲載されたという。

例祭     9月第2土・日曜日

 

この三鷹八幡大神社がある町名は下連雀ですが、

これは明暦3年(1657)に起きた明暦の大火(振袖大火)

機縁となっています。大火の後、

神田連雀町(現:神田須田町・淡路町付近)の一部の住民が

替え地として当地を与えられ、新田を開発することになります。

そして、この地を連雀新田と名付けます。

これが現在の下連雀の起こりです。
 

なお、下連雀の西に隣接して上連雀がありますが、
これは連雀新田が上下に分かれたものではないそうです。
連雀新田(現:下連雀)の西に連雀前新田が開かれ、
京都に近いことから連雀前新田を上連雀
連雀新田を下連雀と呼ばれるようになったそうです。
当時はやはり京都(天皇)の方が偉かったんですね。
 
蛇足ですが、この「連雀」という言葉は
レンジャク科の鳥という意味と、
物を背負うのに用いるしょいこ(背負子)の意味があります。
物を背負うのに用いる背負子の連雀は、
肩に当たる部分を広く編んで作った縄や、
それを木の枠に取り付けた物などであり、
連尺とも書きます。
江戸時代の行商の多くは、
この連雀に荷物を担いで各地を往来し、
連雀で運搬する行商を連雀衆ともいわれたそうです。
 
本来、「連雀」とは文字通り「渡り鳥の雀」を指していたようです。
しかし、「連尺」を用いる行商が渡り鳥のように見えた事から、
「連雀」が「連尺」の同義語として用いられるようになります。
そして、江戸時代の城下町には行商が連尺に
荷を繋げたまま荷物を下ろし、そこに店を出した地域があり、
これが各地の「連尺」「連雀」「連尺町」の由来となっています。
 
大火災「明暦の大火」は江戸の町だけでなく
江戸城の天守閣をも焼失させ、
文字通り完璧なまでに江戸の町を焼き尽くします。
しかし、その後の災害復旧という形で、
現代まで続く江戸の町の基礎を形作る契機となります。
皇居を中心とした現在の東京がそうですし、
ここ下連雀もまたそうなのです。
 
ちなみに吉祥寺が近くにありますが、
この吉祥寺という地名も「明暦の大火」に
関連して付けられた地名だそうです。
災害は人々に大きなつめ跡を残しますが、
その後には新たなものを生み出してくれるものでもあるようです。