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郷土の五十三次(6)

前回のつづき・・・

濱松の宿を出て西へニ里
三十番目の宿、舞坂がある

何故このような地名が付けられたのか解らない

天から龍でも舞い降りたのか
それとも舞の舞台でもあったのでしょうか
勝手な想像をして楽しんでいます

このあたりは海岸に近い所に街道があったのだと思います
現在も砂地が多く風になびいた松並木も見られます

京へ向かう人は次の新居の関所で検閲を受けるため
慎重に準備を、東へ向かう旅人は関所を通過した

安堵感からのんびりと旅したことでしょう



舞坂は余程小さな宿だったのか
あまり記録が残っていないようです

想像するに、ここでは新鮮な海の幸を堪能しながら
旅の疲れを癒した人も多かったものと思います


舞阪を過ぎると遠州最後の宿新居にはいります


このつづきは次回(最終回)に・・・



郷土五十三次(5)

天竜川を越えると二十九番目の宿濱松に入る
この宿場も城下町の色彩が強いところです


今川義元を倒した信長と手を組み三河の統一を
進める家康が二十九歳の元亀元年(1570)岡崎から移り住み


姉川、長篠、長久手、三方原の戦さを制し
着々と地歩を固めた「出世城」として
名を残したのが濱松城


家康が後門の虎に睨みを効かさなければ
信長は清洲から一歩も踏み出すことが
出来なかったでしょう


濱松には本陣六軒と宿が九十六もありました

天正十四年(1586)までの十七年間家康は


駿府に移住するまでここ濱松ですごしました

毎年五月に行われる凧揚げは
子供の成長と家康のように出世を願っての事と聞きます


また、七月の新盆に行われる
大念仏は三方原で敗れた武田軍を弔う為に
始まったようです

郷土の五十三次(4)

前回のつづき・・・


天竜川を越えると二十九番目の宿濱松に入る
この宿場も城下町の色彩が強いところです


今川義元を倒した信長と手を組み三河の統一を
進める家康が二十九歳の元亀元年(1570)岡崎から移り住み

姉川、長篠、長久手、三方原の戦さを制し
着々と地歩を固めた「出世城」として
名を残したのが濱松城


家康が後門の虎に睨みを効かさなければ
信長は清洲から一歩も踏み出すことが
出来なかったでしょう


濱松には本陣六軒と宿が九十六もありました


天正十四年(1586)までの十七年間家康は
駿府に移住するまでここ濱松ですごした

毎年五月に行われる凧揚げは


子供の成長と家康のように出世を願っての事と聞きます


また、七月の新盆に行われる
大念仏は三方原で敗れた武田軍を弔う為に
始まったようです


この濱松をすぎると舞阪の宿にはいります

このつづきは次回・・・

郷土の五十三次(3)

前回のつづき・・・


天竜川は水深が深く徒歩では渡ることが出来ません


「池田の渡し」という舟着場があり多くの旅人
や荷物を対岸まで運びました

この舟着場は
武田信玄を撃破して京にのぼる信長のために家康が
作った舟着場です


近隣から和舟をかき集め筏のようにつないで
信長に川を渡ってもらったようです


明治に入って鉄道が敷設されるまで唯一の
渡川手段で東海道を上り下りする人にっとっては

無くてならない存在でした


この川を越えれば出世城といわれた家康の濱松宿に入っていきます

このつづきは次回に・・・

郷土の五十三次(2)

前回のつづき・・・


二十七番目の袋井宿から二里ほどの所に
二十八番目見付宿がある


見付の宿には中泉の代官所があり
十万石の幕領を統括する重要な拠点だったらしい


ここには本陣二箇所と旅籠が五十数軒
あり大きな宿場だった


現在も街の所々に白壁の蔵が残っており
蔵の窓を開けて風を入れ替えている様子がうかがえる


旅人の多くはここにお金を落として行ったのであろう
ここから天竜川まで僅かの道のり


流れも今の位置より随分東側にあり
川幅も広かったようす


ここは水深が深く徒歩では渡れず舟が行き来していた
この川を越えれば出世城といわれた濱松の宿に入る


このつづきは次回に・・・

竜馬っちゃ!お龍を助ける(1)

竜馬っちゃ!が おりょうと知り合ったのは1863(文久三年)頃のようです

当時おりょうの一家は貧困を極めていたという 竜馬っちゃ!はこの窮状を

見かね家族をかくまい おりょうを伏見寺田屋の女将お登勢に預けた


「あらまあ坂本様 すみにおけませんね」

「お登勢さん そうじゃないっちゃ この人は・・・」

「いいのよ うちも人手が足りないし それに坂本様の

 頼みじゃ 断る訳にもいかないでしょうからね」

そんなやりとりがあったかどうかは知らないが おりょうは

寺田屋で住み込み働く事になった


おりょうの家は資産家であった ところが 父楢崎将作が勤皇家で

頼三樹三郎 梁川星厳 池内大学などと天下国家を論じる一方

若い志士たちに金品の工面をしていた ところが安政の大獄で将作は

獄舎送りとなり拷問の末病死してしまった

このつづききは次回に・・・




郷土の五十三次

私の住む遠州は


東海道五十三次によると
遠州には24番目から31番目まで都合8つの宿がありました

日本橋から24番目が金谷の宿で越すに越されぬ大井川の
西側にあたり旅籠は50軒ほど

大雨が降ると何日もここで足止めを喰ったようです
川を渡るには川札が必要で

肩車で一枚 連台越(板に棒を通したやぐらのようなもの)で
十枚かそれ以上、旅人には痛い出費です

金のない人は肩車にのり水にぬれながら時には川に転落
しながら渡ったのだと思います

一人で水の中を歩いて渡った旅人に対し幕府は目こぼし
をしていました

(金谷では現在 北遠の地までSLが運行されています)

この難所をすぎると25番目が日坂でここは小さな宿場だった
ようです

次の掛川の宿まで小夜の中山超えが待ち構えており ここで一泊しなければ
ならない人のため宿ができたのだと思います


この続きは次回に