本文
(承久三年五月十九日)二品、家人等を簾下に招き、秋田城介景盛をもって示し含めていはく、「皆心を一にして承るべし。これ最期の詞なり。故右大将軍、朝敵を征罰し、関東を草創して以降、官位といい俸禄といい、その恩すでに山岳よりも高く、シ冥渤よりも深し。報謝の志浅からんや。しかるに今、逆臣のそしりによって、非義の綸旨を下さる。名を惜しむの族は、早く秀康・胤義等を討ち取り、三代将軍の遺跡を全うすべし。ただし、院中に参ぜんと欲する者は、ただ今申し切るべし」てえれば、群参の士ことごとく命に応じ、かつは涙に溺れて返報を申すに委しからず。ただ命を軽んじて恩に酬はんことを思う。
(『吾妻鏡』)
訳
承久三年五月十九日、北条政子は家来らを簾下によび集め、秋田城介景盛を使っていい聞かせるには、「みな心をひとつにして聞きなさい。これが最期のことばである。頼朝殿が朝敵を征伐し幕府を創設しつ以後、官位といい、俸禄といい、その恩はまことに山よらも高く、海よりも深いものである。恩に報いる思いはどうして浅くてよいものであろうか。ところが今、逆臣の讒言によって不当な綸旨が下された。名声を汚すまいと思う者は、はやく秀康・胤義を討ちとり、三代将軍の遺跡を守らなければならない。ただし、院に味方したいと望む者はただちに申し出よ」といったので、集まった家来はみな命令に応じ、涙があふれて返答がはっきりとできず、ただ命をかけて恩な報いようと思った。