元号が〈昭和〉であり、過疎と高齢化の足音がまだ遠かった頃の田舎町でのお話です。

 

当時、私は中学2年生でした。

実家から、そう遠くない山の麓に工事車両が入り、大規模に削られた山の斜面は段々に切土され、鬱蒼と茂っていた森は造成された広大な整地へと変わりつつありました。

その造成地の工事とともに『高速道路が通る』との噂を耳にするようになり、地元新聞にも高速道の話が紹介され、噂が現実味を帯び始めた頃、台形に伸びた盛り土や橋脚が山際を縫うように出現し、私が通う中学校の校舎から見える国道沿いの田畑には土が盛られ″インターチェンジ″ができると、学校内でも話題になりました。

《○○○○年○月の開通予定》

ローカルテレビのCMで開通日を知り、通学路にも台形に伸びた盛り土が横切り、私たちは登下校に盛り土に設けられた短いトンネル(アーチ型カルバートと言われていました)を潜るようになりました。

そして──

冒頭の〈私の家から遠くない整地〉は──

「あの場所は〈サービスエリア〉になるらしいぞ」

整地の近隣から通う先輩が、私の疑問に答えてくれました。

〈サービスエリア〉は地域の活性化に繋がるでしょうし、利益を期待する地元の大人たちには大きな話題になっているようでした。

 

台形に盛られた土の上──連なる橋脚の上に、黒いアスファルトが敷かれました。なだらかな起伏に緩やかなカーブを描く広い道は、さながら大河のように──

 

各地区の商店街では「完成間近の高速道路を歩こう」といったイベントの抽選が始まりました。

○○小学校の生徒たちは、高速道路に掲げる標識で「動物注意」の図柄を多彩なバリエーションの中から選べる権限を与えられました。

○○幼稚園が、高速道路の土台斜面「のり面」の一部に好きな花を植えるなど──

道路の開通により、様々な恩恵に預かるであろう各地で、高速道路に因んだイベントが行われていました。

中学校から見えるインターチェンジにも電光掲示板が掲げられ、すっかり完成間近の様相を呈してきています。

道路開通の工事は、急ピッチで進められていて、将来的には他の道路に繋げていく計画があるそうです。

そんな中──

″サービスエリアになる″と噂されていた〈私の家から遠くない整地〉はと言うと。

──段々に切土された山の斜面では植林された杉が腰ほどの高さに育ち、広大な整地には植物が茂り、以前の森の姿へと戻りつつあるように思われました。

要するに〈放置状態〉なのです。

間近には高速道路があるのですが、繋がる道はなく正面を横切っているのみで、整地は道路から完全に独立している様子でした。

後に知る事となるのですが、どうやらサービスエリアの話は立ち消えたようでした。

水捌けの悪い整地は、秋口になると背の高い季節の雑草に覆われました。

夕刻ともなるとカンタンやササキリといった虫の声に満たされます。

そんな空き地の中央部には、かつて、この地に作られるはずだったサービスエリアの名残でしょうコンクリートの建造物がポツンと存在していました。

両端に階段のある、橋桁6つ程度の高架橋。その中央にポッカリと穴を開けた窓枠のみが横一列に並ぶ四角い部屋が乗っかっていました。

おそらく展望台なのでしょう。片側の階段を登り、真っ直ぐに伸びた遊歩道を進み、縦長の入口を潜ると四角い展望台に入ります。

薄暗い内部は湿り気がありました。

コンクリートの床から突き出た幾つかの鉄筋は赤黒く錆びつき、窓枠の下には雨水が溜っていました。隅には丸まったヤスデが数匹。

全てが、工事途中で打ち捨てられた然として、私は「今思えば何故こんな場所が候補に上がったのか」という疑問に駆られました。

窓枠から望む高速道路と歪な田畑。特に見晴らしが良いわけでもなく、本当にサービスエリアになる予定だったのかさへ疑わしくなるのでした。

興味本位で立ち入ったものの、何ら面白み(私的な利用価値)もない代物に興味は薄れ、すぐに降りてしまいました。

そして──

中学校での中間テストが終わり、10月も中旬に差し掛かろうとした頃でしょうか──

学校からの帰路を、いつものメンバー(A治、Y斗、K亮、そして私)4人で歩んでいた際に、私は何とはなしに例の展望台の事を話題にあげました

すると、メンバー内でも活発な性質のA治が「行ってみたい」と言い出しました。

さして重要性のない、会話の間を埋めるだけに投げた廃屋の話は、思いがけず3人の興味を引きました。

「よい案がある」

A治は、私たちの前に出ると歩みを止めました。

「水曜日の夜、その展望台で《○○ヤング○○》の〈ラジオ放送〉を皆で聞こう」

その当時、仲間内で共通の話題だった『ラジオ番組』がありました。

中でも、水曜日の放送に私たちの話題は集中していたのです。

《ポータブルラジオを持ち出し、ラジオ番組を展望台で聴く(皆で)》

彼の提案に、テストと言う精神的な負荷から解放された私たちは、解放感を満喫──謳歌したくもありましたし、少々《羽目を外してもよいだろう》と言う思いもあり、U斗、K亮、もちろん私も異論などなくA治の提案に賛同しました。

22時からのラジオ番組でしたので、私たちは《家族にバレないように》を絶対条件に、今週の水曜日に(次の日は確か祝日だったと記憶)家を抜け出し──21時30分頃に現地集合──と、決めました。

しばらく下校時の話題は《バレないように家を抜ける方法》や《各々が持ち寄る菓子の探り合い》など、ラジオ聴取会の事が占めていました。

 

そして、いよいよ水曜日──

半ドンの授業を終え(中間テスト後の数日は先生方の採点の為か、学校は半ドンでした)学校からの帰り道。

今夜が決行日である《ラジオ聴取会》の口火を切ったのは、提案者のA治でした。

彼が言うには《聴取会》の参加者が「何人か増えるかも知れない」

との事でした。

彼は、新たな参加者と合流した後に現地に向かうと告げた後──

「集合時間に変更はない」

と付け足しました。

ラジオはK亮が用意する手筈なのですが万が一を考慮し、A治も予備を用意するそうです。

私は正直に言うと、この企画は4人で″つまやか″に、その他のクラスメイト達にも〈秘密〉という形で楽しみたかったのですが、発案者はA治であるし、場の《熱》に水を差したくもなかった私は表面上、乗り気で快諾しました。

そして、家を抜ける時間や持ち寄る物など、諸々を互いに確認しつつ、学校から一番近いA治は家の前で別れ、Y斗とは次の十字路で離れると、K亮と私は必然的に2人になります。

「家から無事に抜け出せそう?」

私が問うと、K亮は頷いた後──

「姉貴には万が一を考えて話を通しておいたよ」

と苦笑いを浮かべました。

「お姉さん感が鋭いもんね」

K亮の苦笑いの理由でした。

K亮は「どうせ行くのなら」と、目的地に向かう際、私の家の前を通るの事になるので、そこで落ち合い、一緒に集合場所に向かう約束をしました。

21時15分と、絶妙な時間に私の家に来るそうです。

 

私は、家族に気づかれずに家を抜け出せるルートを確保していました。

農業が盛んな田舎町の就寝時間は早く、21時から家々の灯りは消え、22時ともなると一帯は闇に包まれ、人の気配が途絶えます。

21時から自室で電灯を落とし、K亮との約束の時間を確認すると、私は自室の窓を“そろり“と開けました。冷たい外気を感じつつベランダに出ると、用意していたスニーカーを履き、ブロック塀を伝うと、極力、音を立てないように、アスファルトに降り立ちました。

「手慣れてるなぁ」

電柱の脇からK亮が声をかけました。

「月が出てるから明るいや」

町の灯りが少ない分、月や星が夜に映えます。

山間部の夜は、深海のように深く寂かに圧を伴い、総てを包み込みます。懐中電灯などの直線的な光は闇淵に囚われ、たちまちの内に飲まれてしまいます。恒星が放つ放射的な光は、仄かな灯りとなって闇の濃淡を浮かび上がらせるのです。すなわち、真の闇ではない月夜に懐中電灯は余り役に立ちません──LEDやリチウム電池の発明は、もっと後になります。この頃の電池はニッケルだったのではないかなと、うろ覚え。とにもかくも、あの頃の懐中電灯の光源は暖色で決して充分なものではありませんでした──

私たちは、お互いに携帯した懐中電灯の性能を確認しました。私は家の非常用懐中電灯で、K亮は祭り屋台の景品によくあるペンライトでした。

今思えば、なんとも光源に不安を覚える装備でした。

 

少々、肌寒さを感じる外気の中、秋の虫の音が夜道の不安を和らげてくれていました。

私は持ち寄り物に、親の酒のつまみであろうチーズ菓子を持ってきたことを告げると、K亮は

「姉貴から差し入れ」

と紙袋から洒落たパッケージの菓子を取り出して見せました。

「流石だね」

寝床を抜けて夜道の徘徊──

子どもの枠を破り、何処か禁忌を犯したような後ろめたさとは裏腹に、気分は高揚していました。

私とK亮は、決して広くはないバイパス道路の横断歩道を渡ると、集合場所である展望台に向かうための近道である未舗装の道に逸れました。もちろん街灯などはなく、懐中電灯のスイッチを入れ、足元に注意しながら、しばらく歩くと高速道路下の小さなボックス状カルバートに差し掛かりました。

「おっ、集まってるな」

カルバート内には2箇所ほど蛍光灯が設置され、4人の姿が確認できました。その内の1人はA治でした。

「A治とーあれはT男か。そしてー女子2人はR子とY江?」

私たちにカルバート内の4人も気づいたようで、こちらに顔を向けています。

「よう」

T男はさておき、クラスの女子も参加している事に少しテンションが上がった私たちでしたが、歩みを進めるにつれ4人の表情が固いのに気がつきました。R子に至っては泣いるようでY江が宥めている形でした。

T男は寒いのか、すくめた肩を両手で仕切りに摩っていました。

雰囲気を読んで、K亮が陽気な挨拶とともに挙げた手をゆっくり下げます。

「どうしたの?」

と、問うが早いかA男は私たちの腕を引き、展望台のある整地の方へとカルバート内を移動しました。

女子たちと少し距離を取った辺りでA治は手を離すと、一呼吸置いた後に固い表情を崩さず──

「予定より早く着いた俺たちは、時間を持て余してしまって”下見も兼ねて先に準備しておこうか”ということになり、4人で展望台?に向かったんだ」

 

ここから先はA治の話です──

 

A治、T男、R子、Y江の4人はA治、T男の自転車2台で、集合場所である展望台まで来たようです。

約束の時間より早く着いたA治たちは先ほども触れたとおり準備の為、展望台に向かうことにしました。

A治を先頭に、生い茂るススキを掻き分けながら進みました。秋の虫が進む道筋の先々で音止めます。

月明かりを受け、白く浮かび上がる展望台に近づくにつれ、4人は廃墟独特の威圧感に思わず歩みを止めたそうです。

「ここでラジオを聞くの?」

R子、Y江の2人は明らかに怯えていました。A治、T男は、湧き上がる不安感を女性2人に気取られないよう

「街よりも高い位置だし、電波の感度は良いかな」

「ノイズだらけなんてことないよな」

少々大袈裟なリアクションで、持参したポータブルラジオの電源を入れてみました。

多少ノイズがあるものの、AMラジオ番組の受信に問題はないようでした。

ラジオの電源を入れたまま、4人は展望台の側面に回り、遊歩道へと続く、充分な広さが確保されている階段に足をかけました。

徐々に高速道路の全容が見え始めます。

段を登るにつれ、高速道路の全容が現れ、ラジオのノイズは少なくなって行きました。

「感度良好だ」

皆は顔を見合わせて喜んだ。

遊歩道からは月明かりに浮かび上がる高速道路と、影絵のように佇む小さな町の屋根が望めます。

有名な清涼飲料水の宣伝がラジオから流れると4人は歌いました。

皆に恐れや不安感は微塵もなくなっていました。

「この遊歩道でもいいかもね」

「でも、やっぱり寒いよ」

山奥から、たっぷりと蓄えられた冷気が降りてきます。

夜の寒さを鑑みて長袖の上に羽織り着を用意したものの、其々が選択を誤ったようです。4人は寒々と遊歩道を進み、展望台へと向かいました。

遊歩道から展望台内部へは、縦長の入口を潜る必要があります。流石に建物の内部は暗く、懐中電灯の灯りが必要でした。

入り口を潜ると同時に、ラジオの電波にノイズが交じり始めました。

展望台の部屋を右手に、左側の似た構造からなる小さな空間はトイレでしょうか、2つ隣り合わせに並んでいました。

A治、T男が、懐中電灯を手に窓枠であろう四角い穴が連なる、展望台らしき空間に足を踏み入れました。

「窓に近い方が電波が入りやすいはず」

ラジオからノイズ交じりに、歌謡曲が流れ始めました。

6つある大きな窓枠からは月光が入り、懐中電灯の光がなくとも、思いのほか内部の構造が把握できました。

(このまま窓の方へ)

A治がラジオを掲げ、窓枠の方へと歩み出したその時──

空間の奥まった箇所ーコンクリート柱の影が一瞬で体積を増したような気がして歩みを止めました。

「臭い!」

有機肥料か、またカビが放つ揮発性の化合物のような、湿り気をたっぷりと蓄えた刺激臭が鼻腔を刺激します。

匂いの元──

コンクリート柱の影に、なお濃い闇が澱みのように佇んでいました。

窓枠からの月明かりを反射した、小さな2つの鈍色がジッとA治を捉えています。

黒い影が”ごそり”と、その堆積を増すと刺激臭が更に強くなりました。

A治がようやく懐中電灯の光を漆黒に向けると同時に、異様さを感じ取ったT男もA治の背後から懐中電灯を《それ》に合わせました。

その瞬間。

懐中電灯に照らし出されたものを視た女子たちが、2人の背後で悲鳴をあげました。

「わぁ!」

A治、T男は匂いの正体を知るや、余りにも異様さに息を飲み、固まっていましたが、女子たちの悲鳴がきっかけとなり、瞬間──弾かれたように踵を返し、もつれそうな足で出口を目指しました。

「逃げろ!逃げろ!」

驚愕の表情で凍りついている女子2人を促し、4人は奔りました。

ポータブルラジオから女性シンガーの歌声が流れる中、懐中電灯の光に浮かび上がったのは正に《異形》でした。

黒い不潔な獣毛に覆れた二足歩行型の体躯は歪み、赤黒く湿り気のある光沢は血であろうか、獣毛の所々に瘡蓋のような塊となり張り付いていました。

そして、老人のように痩けた頭部はそ双眸のみが目立ち、鈍色の瞳でこちらを捉えたまま、臨戦体制に移りつつあるのか立ち上がろうとしていました。

 

遊歩道を駆け、ススキを掻き分け、蛍光灯が照らすカルバートまで、ほうほうの体で4人は逃げてきたというのです。

そして──そんな事情を知らず、朗らかに合流するK亮と私。

「表皮が裂けた獣人だった」

A治の言葉にR子とY江が再び怯え出しました。

「2本足で立ってた」

続くT男の言葉に、A治が静かに頷きます。

彼らの証言に、私は狼男を連想していました。

人間から狼男に変化する際に、人間であった自らの皮膚を掻くと内部からはみっしりと黒い獣毛が──

「パンツ履いてた、、、」

「え?」

その場の全員が、発言者であるT男に注目しました。

「逃げながら、動向を確かめようと振り返って懐中電灯で照らしてみたら、見たんだ」

《白いパンツをー》

つまるところ《異形は白のブリーフを履いていた》と、T男は断言するのでした。

 

暫くの軽い目眩と混乱と沈黙の後──

「怖い」

R子が鼻声で呟きました。

その声に、パンツの呪縛から解けた私たちは慌てて現状に思考を戻しました。

「T男。申し訳ないが、R子とY江の2人を家まで送ってやってくれないか」

A治がT男に手を合わせ、許しを乞うジェスチャーをすると

「俺の自転車の鍵だ」

続いてY江にA治は自転車の鍵を渡しました。

この場所に来た時のように、T男がR子を荷台に乗せ、A治の荷台に乗ってきたY江は、A治の自転車を漕いで帰宅するように──との事だった。

「残念ながらラジオ聴取会は中止だ」

A治が大袈裟にため息を吐きました。

K亮は呼応するかのように頷きました。

「 A治たちはこれからどうするんだ?」

Y江を荷台に載せ、帰宅の準備を整えたT男が自転車にまたがりつつ声をかけます。

「俺たちは3人で懐中電灯を取りに展望台に行く」

「!?」

K亮と私は、A治の突然の宣言に間抜けな声をあげてしまいました。

「明るい時の方が良いのでは?」

「止めときなよ」

T男、Y江が止めてくれているにもか、かわらずA治はかぶりを振ると──

「親父が夜間の犬の散歩に使うから、無いと煩いんだよ」

A治が私とK亮に懇願するのでした。

「な、頼む!」

A治が重ねた手を擦り合わせる。

K亮と私は暫く顔を見合わせたが、やがてK亮は苦笑した後──

「よし、行こうか」

「仕方ないな」

K亮と私は、A治の頼み事を甘受しました。

毎度の──と言っていいほどに、これまで何度も繰り返され、パターン化したやりとりでした。

「そうこなくちゃ」

A治は、調子よく私とK亮の背後から肩に手を回し屈託のない笑顔で──

「そういう訳で、結果報告は休み明けの学校にて」

A治、K亮、そして私は、不安気な表情で自転車に乗ったT男、Y江、R子を見送る形になりました。

「無茶するなよ」

注意の言葉を残し、自転車の3人は何度もこちらを振り返りつつ、街灯を過ぎたあたりのカーブに見えなくなりました。

「──さてと」

A治が展望台に視線を移します。

K亮と私も釣られるように、最初の目的とは大いに異なってしまった対象物を捉えました。

月の光を浴び、白く浮かび上がる無機質なコンクリートの壁。

草むらから響く虫の声は、相変わらず賑やかでした。

「懐中電灯を消して進もう」

ラジオと菓子類は、カルバート内に置いていく事になりました。私たち3人はA治を先頭に一列になり、なるべく音を殺しつつススキの群生の中を進みます。展望台の窓枠の穴は闇を湛え、中の様子を伺うことはできませんでした。

やがてススキの群生を抜け、橋脚の階段に足をかけると月下に自分たちの姿が晒され、思わず身を屈めました。

階段の端の僅かな影に隠れるように一段ずつ慎重に登り切ると遊歩道に差し掛かります。

「ここからは隠れて進むのは、、、ムリだな」

声を顰め、K亮が呟きます。

「武器を持って来れば良かったな」

(棒きれでも拾っておくんだった)

丸腰で来てしまった自身を呪いました。

「いざとなれば、この石でガツンと」

A治の手には拳ほどの石が握られていました。

《異形》を相手に、何ら有効な策を練ることもなく私たちは、その〈根城〉もしくは〈領域〉に入っていました。

ですが、以前から山の隧道を潜ったり、夜の神社に侵入したりと、多少の肝試しっぽい事も繰り返してきた3人なので、謎の安心感(安定感)があったのです。

「行こう」

A治が先行しました。

月灯りが容赦なく、私たちの姿を晒します。

展望台の入口を前にA治が振り返りました。

「闇に目が慣れつつあるから懐中電灯は、まだ点けないでおこう」

内部の闇に、ゆっくりと身体を滑り込ませるように進んで行きます。

暫くすると、濃密な闇の粒子が時間と共に、荒く解(ほど)けてゆき、濃淡が見分けられるようになり、展望台の内部構造が大凡、把握できるまで闇に目が慣れてきました。

「足元の鉄骨に気をつけろよ」

A治、K亮の表情までは分かりませんが、緊張は伝わってきます。

そして、僅かながらの高揚感──

窓枠から差し込む月光が、刃物のように白々と闇を裂いていました。

「臭い」

以前、猟友会所有の建屋内で見せてもらった生きた猪と同じ臭いでした。

獣臭でした。

間違いなく異形が存在した証でした。

 

私は懐中電灯を点け、光を獣臭のする闇に向けました。

光の輪の中には、シミの浮いたコンクリートが映るのみでした。

注意深く、室内の隅々を光で追いましたが、有難いことに異形の姿はありませんでした。

「居ないようだな?」

K亮が、緊張を押し殺した声で呟きました。

「オレの懐中電灯は、、、」

異形の影に怯えつつ、注意深く部屋の内部を隈なく探し回ったものの、A治の懐中電灯は残骸すら見つけることはできませんでした。

「草むらに落とした訳じゃないよな?」

K亮の問いにA治は否定しました。

「ここで転びそうになり、懐中電灯を転がしてしまった」

転ぶのは回避できたが、手をついた際に懐中電灯を手放してしまったとのことでした。

くるくると回転しながら遠くなる光の筋を見たそうです。

その後も部屋を隈なく捜索してみたけれど、やはり懐中電灯は見つけることができませんでした。

「そもそもライトは付いてたんだろ?」

ペンライトのか細い光をこちらに向けながらK亮が問う。

「ああ付いてた、、、つうか何だよそのオモチャは」

「なぁ、明るい時に探そうぜ」

私たちは、まだ微かに獣臭の残る闇を見ました。

「帰ろうか」

A治が溜息交じりに呟きました。

「今夜は見つかる気がしない」

展望台を無事に後にして、カルバートまで戻りました。若干の疲れもあってか私たちは無言になっていました。

虫の音は相変わらず賑やかですし、夜空の月は薄雲を纏い、朧月へと変化しつつありました。

そんな中──

「おい!見ろ!」

K亮が叫びました。

その声に思わず身構えてしまいましたが、K亮の指す方向──展望台を振り返った私たちは息を飲みました。

展望台の窓枠からの内部──

光の筋が狂ったように乱舞していました。

「懐中電灯だ!」

展望台内部の壁、天井、または窓枠から外部へと──オレンジ色の決して強くない光源は、おおよそ目的のない方角へと忙しなく対象物を替えながら照射されていました。

″何者かがA治の懐中電灯を振り回している″

展望台の中で何者かが──

思考が結論に至るまで、それほど時間は掛かりませんでした。

「にげろ!」

A治は叫ぶやいなや、帰り道に向かい走り出しました。

私たちとK亮はA治を追い、慌ててカルバートを抜けます(ラジオと菓子類は、しっかり掴みました)高速道路に遮られ、見えないのにも関わらず展望台の方向を何度も確認しつつ暗い畦道を3人は走りました。

バイパス道まで出ると少し落ち着きを取り戻した私たちは足を止め、街灯の元で呼吸を整えました。

「懐中電灯は取り戻さなくていいのか?」

息も絶え絶えにK亮がA治に問いました。

いささか間抜けな問いに、A治は一呼吸置いた後、展望台の方向を一瞥すると、再び私たちに視線を戻し──

「化け物が掴んだ懐中電灯はちょっと──」

そう言うと、大きく肩で溜息をつきました。

″懸命な判断です″

私とK亮は何度も頷きました。

「さて──帰るか」

3人は、もう一度、展望台の方向を見ました。

こちらの方角からは展望台は見えませんが、高速道路の山際は普段と変わりなく、黒く寂かに佇んでいました。

そして、無事に帰れたことに安堵し、個々にこっそりと(親にバレないよう)寝床に着いたのでした。

(眠れたのかどうかは別として)

 

結局のところ後日、K亮と私は陽のあるうちに再び、完全武装で展望台へと入りA治の懐中電灯と何かの痕跡を探そうと試みましたが、懐中電灯はおろか、小さな痕跡すら見つけることはできませんでした。

A治は懐中電灯の行方を父親に問われたそうですが”知らぬ存ぜぬ”で通したようです。

「Y江に自転車返してもらわないとな。お前らも付き合ってくれよ」

A治が調子良く手を擦り合わせました。

 

その後、展望台は崩され、砂利引きに整地された跡地には、現在──絵の具で有名な会社の物流倉庫が建っています。

 

「剛毛で得体の知れない異形を見たことがあるか?また、噂を聞いていないか」

物流倉庫の関係者に尋ねてみたくもあります。