最長文投稿!【野上】
どうも。
野上です。
長文ですので、お時間に余裕のある方のみ、是非読んでみてください。
横浜国際女子マラソンが終わりまして。
これまで自分の胸の内に封印していましたが。
2011年最後の大一番、
棚橋弘至VS永田裕志
名古屋決戦がいよいよ迫ってきました。
プロレスを担当するようになってから、IWGP戦を実況するのが夢でした。
やがてそれは、「夢」から「目標」に変わり、実況について想いを馳せる時、いつもIWGP戦実況が胸にはありました。
やすやすと現状に甘んじて、吉野さん古澤さんの背中を指をくわえて見ているつもりは毛頭ありませんでした。
でも実際は、なかなか上手くはいきませんでした。
あと一歩。もう一歩。
自分の実況の在り方に悩み、どう対峙して、どんな喋りをしていくのが最善なのかを考える日々も、答えは簡単にでず、壁の高さを思い知りました。
いつしか私は、
「飯塚に襲われるアナウンサー」
として、少なからずプロレスファンの皆さんから認知して頂けるようになりました。本当に有り難くも、会場で「頑張れよ!負けるなよ!」と声を頂く機会も増えました。
とても幸せで嬉しいことです。
しかし同時に、自分の予想を超えて、名前が先行していく現状に大きな戸惑いもありました。
「実況がそれに追いついていないのではないか」
こうした想いを反芻しながら、取り組んでいました。
2カ月ほど前です。
ファンの方が、会社に手紙をくれたことがありました。
熱烈なプロレスファンの方で、便箋6枚にも及ぶものでした。
「古澤アナ吉野アナに続くのは野上さんだと思ってます。」
という書き出しから、私の実況の一長一短を丁寧に、優しく、温かく、的確に書いてくださっていました。
その中に、印象深い言葉がありました。
「最初から野上さんをずっと見てますけど、青義軍の一員になって、飯塚と実況で戦うようになってから、実況が変わった気がします。前よりずっと良くなりました!G1の永田棚橋戦の実況は合格点を超えてたと思います。その後の天山中邑戦の実況は、今年のベスト実況だと思います。」
主役は選手で、お客さんは視聴者。実況が、誰かの胸にわずかでも届いたなら、こんなに嬉しいことはありません。
そして、この方が書いてくださったように、この一年の私は、紛れもなく「青義軍」と共にありました。
去年の年末、キング・ファレが、飯塚戦で裸にされた私にTシャツを着せてくれました。
そのお礼を言うために、道場に足を運んだのが、「私と青義軍」の始まりです。
最初は、感謝の気持ちで満ちてはいたものの、そこに特別で大きな感情はありませんでした。
あれから一年。
一年という期間は、
長いようで短いのか。
短いようで長いのか。
随分と私の考え方に影響を与えた365日でした。
今、心から、青義軍・永田裕志選手に熱いものを感じています。
テレビの画面上だけではなく、いつも会場で、叱咤激励の言葉をかけてくださいました。
「飯塚に襲われるアナウンサーってだけで終われねぇだろう!」
永田選手は言葉と戦いで、私を引っ張りあげてくれました。
8月、福岡。
G1開幕戦のメインイベントの永田棚橋戦の実況を任された時は、
何にも代え難い喜びと、
経験したことのない緊張感に見舞われました。
実況には、賛否両論ありました。
批判的な意見も多く耳に届きました。
しかしあの試合以降、
自分の中での「IWGP戦実況」は、
確実に「夢」から「目標」に変わりました。変えてくれたのは、他でもない、永田選手です。
ワールドプロレスリングスタッフからは、もっともっと「振り切れ」と言われてきました。「おまえにしか出来ない実況をしろ」と言われました。「永田さんの気持ちを一番喋れるのはお前だろう」と…。
前まで感じていた悩みや迷いは少しずつ薄れ、改めて自分なりにプロレス実況と向き合うようになりました。
そして同時に、自分の胸の内で、
いつか訪れるだろう永田選手のIWGP挑戦を絶対に実況する!と決めて取り組んでいました。
「俺がベルトかけてやるときは、お前が喋れるように頑張れよ」
そう言ってくれた永田選手に、
「それを目標に頑張ります!」
と応える私の語気にも自然と力が入りました。
そうして迎える名古屋決戦。
ちょうど一週間ほど前、横浜国際女子マラソンを控えた時期に、
実況担当カードが発表されました。
棚橋弘至VS永田裕志
不安と期待が入り混じり、
高鳴る胸の鼓動を感じながら、
その実況担当欄に、
目をやりました。
しかし、そこに私の名前はありませんでした。
その現実を確かに予想はしていました。でも気持ちが先走り、それ以上に自分の中で、期待の方が大きかったのが事実です。
夢の一戦、に、私は届きませんでした。
たまらずに、私はプロデューサーに直訴しに行きました。
プロレスのプロデューサーは、
若手の挑戦に対して、こよなく背中を押してくれる方です。
これまで、私はプロデューサーから、多くのチャンスを頂きました。
三沢さんが他界した直後の、岡田潮崎戦。
五連戦になった、平成の名勝負数え歌、後藤田中戦。
東京ドームでのプロレスの未来をかけたNOAHとのエース対決、棚橋潮崎戦。
そして今夏のG1開幕戦。初めてのメインイベント。
一般的に考えれば、まだ巡ってはこないであろうチャンスを、
気持ちや努力を認めてくださり、
「勝負」をかけさせてくれました。
でも今回は、私がメインを喋ることは許されませんでした。
直訴の結果、こう返答されました。
「今回に限っては、極めてニュートラルな実況が求められるんじゃないか。ファンもそれを求めているんじゃないか。」
確かに、プロデューサーの意見は至極的確で、それに対して真っ向からの反論はありません。
ただ、自分の気持ちは、そうした理論的な思考の先にあります。
夢とか希望とか、必死に目指してきたものに届かなかった時に、こういう気持ちになるんだなと改めて実感しました。
自分にとって、
「IWGP実況」という高い壁を超えていくための、千載一遇のこのワンチャンスを絶対に掴みとると思っていたからこそです。
私は、プロデューサーとしばしやりとりをした後に、こう答えました。
「永田さんへの気持ちを押し殺してでも。フラットでニュートラルな実況に徹してでも、喋らせてもらえないでしょうか。」
すると、
「きっと、ファンはそれを期待していないんじゃないか。永田さんの実況をする野上には、振り切った実況を期待しているんじゃないかな。」
「野上の気持ちはわかるし、その気持ちは大事なこと。ただ、今回は、今回ばかりは、という判断。」
悩み迷った先に達した、これまでの自分の信じた道の先には、IWGP実況はないのだろうか?
この先は、どうなんだろうか?
カードやシチュエーションによって選ばれてしまう実況者になるんだろうか?
悔しくて、悔しくて、悔しくて。
横浜女子マラソンの直前、
正直、頭の中はこのことでいっぱいでした。
でも、3日ほどいろいろな考えが巡った後に、
達した結論はひとつ。
状況や環境や人のせいにして自分を慰めたり甘やかしたら、きっと歩みは止まってしまう。
今回は、自分の実況に、まだ力が足りなかったんだ。
プロデューサーは、そうは言いませんでした。
でも、やっぱり自分自身の力不足だったと、そう思うことにしました。
そうして、また実況に全力を尽くして、少しずつでも進んでいく。
IWGP実況という目標に向けて。
こうして前向きになれたのは、またしても永田選手から直接かけられた言葉が大きかったように思います。
実は、永田選手との約束を果たせず、申し訳ない気持ちいっぱいで、カード発表後、しばらくして永田選手に電話をかけました。
「実況担当にはなれませんでした。」
そう伝えた私は、きっと、悲壮感に満ちていたのではないかと思います。
すると、永田選手は笑いながら答えてくれました。
「まぁな、なかなか上手くいかねぇのが人生だ。でも、俺がベルトとったら、ドームでメインだろ?そしたらお前はまた直訴しに行けば、今度は喋れるかもしれねぇだろう?」
さらりと言う永田さんが、やっぱり格好よくて…。
何度負けてもあきらめずに、
年齢にも抗って、
プロレスは俺にとって人生そのものだ、
といつも話す永田選手の一言一句が、やはり私には響きます。
その電話をきる直前、最後に言われたシンプル過ぎる永田選手らしい言葉が、今も忘れられません。
「ネバーギブアップだな。」
間もなくやってくる名古屋決戦。
私は私の担当カードに全身全霊をかけます。
そして、
メインイベント。
実況席には座れませんし、マイクもつけられませんが、
でも、実況します。
誰の耳にも届くことはありませんが、
名古屋の会場の隅っこか、
或いはリポート席で、
自分の胸に向けて、実況をしようと思っています。
「ジャスティス」と、
叫ぶ準備を整えて…。
野上です。
長文ですので、お時間に余裕のある方のみ、是非読んでみてください。
横浜国際女子マラソンが終わりまして。
これまで自分の胸の内に封印していましたが。
2011年最後の大一番、
棚橋弘至VS永田裕志
名古屋決戦がいよいよ迫ってきました。
プロレスを担当するようになってから、IWGP戦を実況するのが夢でした。
やがてそれは、「夢」から「目標」に変わり、実況について想いを馳せる時、いつもIWGP戦実況が胸にはありました。
やすやすと現状に甘んじて、吉野さん古澤さんの背中を指をくわえて見ているつもりは毛頭ありませんでした。
でも実際は、なかなか上手くはいきませんでした。
あと一歩。もう一歩。
自分の実況の在り方に悩み、どう対峙して、どんな喋りをしていくのが最善なのかを考える日々も、答えは簡単にでず、壁の高さを思い知りました。
いつしか私は、
「飯塚に襲われるアナウンサー」
として、少なからずプロレスファンの皆さんから認知して頂けるようになりました。本当に有り難くも、会場で「頑張れよ!負けるなよ!」と声を頂く機会も増えました。
とても幸せで嬉しいことです。
しかし同時に、自分の予想を超えて、名前が先行していく現状に大きな戸惑いもありました。
「実況がそれに追いついていないのではないか」
こうした想いを反芻しながら、取り組んでいました。
2カ月ほど前です。
ファンの方が、会社に手紙をくれたことがありました。
熱烈なプロレスファンの方で、便箋6枚にも及ぶものでした。
「古澤アナ吉野アナに続くのは野上さんだと思ってます。」
という書き出しから、私の実況の一長一短を丁寧に、優しく、温かく、的確に書いてくださっていました。
その中に、印象深い言葉がありました。
「最初から野上さんをずっと見てますけど、青義軍の一員になって、飯塚と実況で戦うようになってから、実況が変わった気がします。前よりずっと良くなりました!G1の永田棚橋戦の実況は合格点を超えてたと思います。その後の天山中邑戦の実況は、今年のベスト実況だと思います。」
主役は選手で、お客さんは視聴者。実況が、誰かの胸にわずかでも届いたなら、こんなに嬉しいことはありません。
そして、この方が書いてくださったように、この一年の私は、紛れもなく「青義軍」と共にありました。
去年の年末、キング・ファレが、飯塚戦で裸にされた私にTシャツを着せてくれました。
そのお礼を言うために、道場に足を運んだのが、「私と青義軍」の始まりです。
最初は、感謝の気持ちで満ちてはいたものの、そこに特別で大きな感情はありませんでした。
あれから一年。
一年という期間は、
長いようで短いのか。
短いようで長いのか。
随分と私の考え方に影響を与えた365日でした。
今、心から、青義軍・永田裕志選手に熱いものを感じています。
テレビの画面上だけではなく、いつも会場で、叱咤激励の言葉をかけてくださいました。
「飯塚に襲われるアナウンサーってだけで終われねぇだろう!」
永田選手は言葉と戦いで、私を引っ張りあげてくれました。
8月、福岡。
G1開幕戦のメインイベントの永田棚橋戦の実況を任された時は、
何にも代え難い喜びと、
経験したことのない緊張感に見舞われました。
実況には、賛否両論ありました。
批判的な意見も多く耳に届きました。
しかしあの試合以降、
自分の中での「IWGP戦実況」は、
確実に「夢」から「目標」に変わりました。変えてくれたのは、他でもない、永田選手です。
ワールドプロレスリングスタッフからは、もっともっと「振り切れ」と言われてきました。「おまえにしか出来ない実況をしろ」と言われました。「永田さんの気持ちを一番喋れるのはお前だろう」と…。
前まで感じていた悩みや迷いは少しずつ薄れ、改めて自分なりにプロレス実況と向き合うようになりました。
そして同時に、自分の胸の内で、
いつか訪れるだろう永田選手のIWGP挑戦を絶対に実況する!と決めて取り組んでいました。
「俺がベルトかけてやるときは、お前が喋れるように頑張れよ」
そう言ってくれた永田選手に、
「それを目標に頑張ります!」
と応える私の語気にも自然と力が入りました。
そうして迎える名古屋決戦。
ちょうど一週間ほど前、横浜国際女子マラソンを控えた時期に、
実況担当カードが発表されました。
棚橋弘至VS永田裕志
不安と期待が入り混じり、
高鳴る胸の鼓動を感じながら、
その実況担当欄に、
目をやりました。
しかし、そこに私の名前はありませんでした。
その現実を確かに予想はしていました。でも気持ちが先走り、それ以上に自分の中で、期待の方が大きかったのが事実です。
夢の一戦、に、私は届きませんでした。
たまらずに、私はプロデューサーに直訴しに行きました。
プロレスのプロデューサーは、
若手の挑戦に対して、こよなく背中を押してくれる方です。
これまで、私はプロデューサーから、多くのチャンスを頂きました。
三沢さんが他界した直後の、岡田潮崎戦。
五連戦になった、平成の名勝負数え歌、後藤田中戦。
東京ドームでのプロレスの未来をかけたNOAHとのエース対決、棚橋潮崎戦。
そして今夏のG1開幕戦。初めてのメインイベント。
一般的に考えれば、まだ巡ってはこないであろうチャンスを、
気持ちや努力を認めてくださり、
「勝負」をかけさせてくれました。
でも今回は、私がメインを喋ることは許されませんでした。
直訴の結果、こう返答されました。
「今回に限っては、極めてニュートラルな実況が求められるんじゃないか。ファンもそれを求めているんじゃないか。」
確かに、プロデューサーの意見は至極的確で、それに対して真っ向からの反論はありません。
ただ、自分の気持ちは、そうした理論的な思考の先にあります。
夢とか希望とか、必死に目指してきたものに届かなかった時に、こういう気持ちになるんだなと改めて実感しました。
自分にとって、
「IWGP実況」という高い壁を超えていくための、千載一遇のこのワンチャンスを絶対に掴みとると思っていたからこそです。
私は、プロデューサーとしばしやりとりをした後に、こう答えました。
「永田さんへの気持ちを押し殺してでも。フラットでニュートラルな実況に徹してでも、喋らせてもらえないでしょうか。」
すると、
「きっと、ファンはそれを期待していないんじゃないか。永田さんの実況をする野上には、振り切った実況を期待しているんじゃないかな。」
「野上の気持ちはわかるし、その気持ちは大事なこと。ただ、今回は、今回ばかりは、という判断。」
悩み迷った先に達した、これまでの自分の信じた道の先には、IWGP実況はないのだろうか?
この先は、どうなんだろうか?
カードやシチュエーションによって選ばれてしまう実況者になるんだろうか?
悔しくて、悔しくて、悔しくて。
横浜女子マラソンの直前、
正直、頭の中はこのことでいっぱいでした。
でも、3日ほどいろいろな考えが巡った後に、
達した結論はひとつ。
状況や環境や人のせいにして自分を慰めたり甘やかしたら、きっと歩みは止まってしまう。
今回は、自分の実況に、まだ力が足りなかったんだ。
プロデューサーは、そうは言いませんでした。
でも、やっぱり自分自身の力不足だったと、そう思うことにしました。
そうして、また実況に全力を尽くして、少しずつでも進んでいく。
IWGP実況という目標に向けて。
こうして前向きになれたのは、またしても永田選手から直接かけられた言葉が大きかったように思います。
実は、永田選手との約束を果たせず、申し訳ない気持ちいっぱいで、カード発表後、しばらくして永田選手に電話をかけました。
「実況担当にはなれませんでした。」
そう伝えた私は、きっと、悲壮感に満ちていたのではないかと思います。
すると、永田選手は笑いながら答えてくれました。
「まぁな、なかなか上手くいかねぇのが人生だ。でも、俺がベルトとったら、ドームでメインだろ?そしたらお前はまた直訴しに行けば、今度は喋れるかもしれねぇだろう?」
さらりと言う永田さんが、やっぱり格好よくて…。
何度負けてもあきらめずに、
年齢にも抗って、
プロレスは俺にとって人生そのものだ、
といつも話す永田選手の一言一句が、やはり私には響きます。
その電話をきる直前、最後に言われたシンプル過ぎる永田選手らしい言葉が、今も忘れられません。
「ネバーギブアップだな。」
間もなくやってくる名古屋決戦。
私は私の担当カードに全身全霊をかけます。
そして、
メインイベント。
実況席には座れませんし、マイクもつけられませんが、
でも、実況します。
誰の耳にも届くことはありませんが、
名古屋の会場の隅っこか、
或いはリポート席で、
自分の胸に向けて、実況をしようと思っています。
「ジャスティス」と、
叫ぶ準備を整えて…。