無量寿経から
(8) ^わたしが仏になるとき、 わたしの国の天人や人々が*他(た)心(しん)通(つう)を得ず、 数限りない仏がたの国々の人の心を知り尽すことができないようなら、 わたしは決してさとりを開きません。
(9) ^わたしが仏になるとき、 わたしの国の天人や人々が*神足(じんそく)通(つう)を得ず、 またたく間に数限りない仏がたの国々を飛びめぐることができないようなら、 わたしは決してさとりを開きません。
(10) ^わたしが仏になるとき、 わたしの国の天人や人々が、 いろいろと思いはからい、 その身に執着することがあるようなら、 わたしは決してさとりを開きません。
(11) ^わたしが仏になるとき、 わたしの国の天人や人々が*正定(しょうじょう)聚(じゅ)に入り、 必ずさとりを得ることがないようなら、 わたしは決してさとりを開きません。
(インターネットからコピー&ペイスト)
これは仏教の、膨大な無量寿経の中の、菩薩の誓願の、ごく一部です。学生時代に私は無量寿経の解説本を読みましたが、解説本ではここがポイントであるとして、皆さんが彼岸に渡り終えるまで私は彼岸へは行きませんと言う、皆で彼岸へ渡りましょうと言う大乗仏教の神髄であると解説していました。ここで私はこの説明に偽善を感じ、これが分からないのは私に社会人の経験がまだ無いからだろうと、それから仏教の勉強を中断しました。
しかし、これって変ですよね。
解脱体験(彼岸)の経験の無い人がどうやって皆さんを彼岸へ渡せますでしょうか。登山には山岳ガイド、シェルパが必要ですのに、登山の経験の無い人が大勢の人達の応援をするだけで大勢の人達は安全に登山が出来ますでしょうか。この解説の通りなら誓願はかなり情緒的ですね。日本人は宗教にも情緒を持ち込みますが、仏教は情緒では無く哲学です。
仏教の根本は「自己を知る事」です。仏教の修行を重ねてニルヴァーナ(涅槃)に到る訳ですが、ニルヴァーナ(涅槃)はヨガではサマーディ(解脱体験)と言います。サマーディ(解脱体験)を経験したうえで他の人達にもサマーディ(解脱体験)を経験して貰おうと思い立って社会生活をするのが順番で、自分はなにもせずにいきなり他者を救おうと言うのはおかしいですよね。
そして、解脱体験のあとに利他の行為が続くのでしょうが、利他の行為の前に大事な事が有ります。それは他人の迷惑にならない事、他人に嫌な思いをさせない事です。簡単に言いますと怒らない事、これはなかなか難しいですよ。