プルシャとプラクリティ

 インドのサーンキヤ哲学は二元論です。世界の大元にプルシャとプラクリティを立てます。プラクリティは展開をします。展開をして心→体→環境世界が現れます。一方プルシャは何もしません。なにもせずプラクリティの展開を見ているだけ。ただ有るだけ。さあ、このプルシャとプラクリティをどう表現しましょうか。

 中央公論社発行の「世界の名著1」に収められている「古典サーンキヤ体系概説」ではプルシャを精神原理、そしてプラクリティを物質原理と表現しています。また春秋社発行、本多恵著の「サーンキヤ哲学研究 上」ではプルシャを我、そしてプラクリティを根本原質と訳しています。更に英語では?とBingにサーンキヤ哲学のプルシャとプラクリティを英語では何と言う?と聞いてみますとプルシャはコンシャスネス、セルフ、そしてプラクリティはネイチャー、マターと翻訳するようです。なかなか難しいですね。

 第1の精神原理と物質原理はどうでしょうか。精神と言いますと私達は心を連想しますでしょう。しかし心はサーンキヤ哲学ではプラクリティの範疇に入りますからこれは誤解の元。また物質原理と言うのもプラクリティの躍動を思えばあまりふさわしくないように思えます。

 第2の本多恵さんの我と根本原質はどうでしょうか。我はサーンキヤ哲学ではアハンカーラ(自我意識)としてやはりプラクリティの範疇に入りますからこれも誤解の元。しかし根本原質は展開の元を表していてとても良いですね。

 それでは第3の英語はどうでしょうか。プルシャのコンシャスネスは意識、で意識は心の元。またセルフは自己ですから、自己は自我、とプラクリティが展開する心(ヨガのチッタ、マナス)や自我意識(ヨガのアハンカーラ)と混同しやすいですね。またプラクリティのネイチャーは自然、マターは事項や案件なので、プラクリティの一部は表現していますがプラクリティの全体を表現しているとは言えないようです。

 インド哲学の用語の解釈は難しい。

 プラクリティは展開する世界の大元ですから表現としては根本原質がぴったりですが、私はプラクリティを展開の全体と捉えて現象世界と表現し、またプルシャは心と混同しないように霊性と表現するようにしています。どうでしょうか、あなたならどう表現しますか?

 追記:プルシャは男性名詞、プラクリティは女性名詞だそうですから、プルシャはシヴァ神、そしてプラクリティはシヴァ神の妃のパールヴァティーに相当すると言えます。男性が霊性で女性は現象世界、面白いですね。