新しい思想との遭遇

 私は長い間古典を読んで来ましたが、その時には古典を読んでいるという認識でした。しかし最近、古典を初めて読む時にはそれが私には新しい思想との遭遇だったのだと改めて気づきました。新しい思想と遭遇しますとその著者と自分が対峙し、それに批判を加えてみたりなるほどと納得したりで決してそっくりそのまま受け入れた訳では有りませんでした。そして批判は批判として、受け入れたものは蓄積しますのでそれが今の私を形作っているようにも思います。

 新約聖書の中でイエスキリストの行いや言葉を記した「福音書」は何度も読み返しました。そしてそれをヨガの目で見ますとイエスキリストは卓越したヨギ(ヨガ行者)だったのだと思います(神の子かどうかは別にして)。

 「コーラン」も読みましたがこれはなかなか理解出来ない。理解するのが難しい為に何々師という人達がコーランの解釈をしながら次から次に新しい戒律を積み重ねてきて今に至ったのだろうと思います。コーランを読んでみますとムハンマドはそれほど戒律にうるさくは言っていませんね。死者が蘇って神の審判を受け、天国に行きますと美女のお酌で決して悪酔いしないお酒を飲めるとのほっこりする表現も有りましたよ。ムハンマドは決して女性蔑視では有りませんし孤児には優しくしなさいと言っていますし、あの時代に社会主義的な思想を主張しています。それを思えばアフガニスタンのタリバンはイスラムでは有りませんね。

 「ヨーガ・スートラ」や「サーンキヤ・カーリカー」、そして「バガヴァッド・ギーター」は初めて読んだ時には私に激しいパンチを加えてくれました。戦後のアメリカ風の教育を受けた私は俄(にわ)かにはインド思想を理解出来ませんでした。プルシャ?プラクリティ?またアートマンやブラフマンに相当する英語も見当たりませんね。プラクリティを英語ではネイチャーと翻訳するようですがちょっと違いますね。これは現象世界と翻訳するのが良いようです。読んだ本にはプルシャを精神原理、またプラクリティを物質原理と説明して有りましたが、私達は精神と言えば想念の事だと思いますよね。サーンキヤ哲学では想念、つまり心は体や環境世界とひとくくりでプラクリティの範疇に入りますので、プルシャは霊性、そしてプラクリティは現象世界と表現するのが良いようです。

 また「バガヴァッド・ギーター」は一般的にはカルマ・ヨガやバクティ・ヨガ、そしてジュニャーナ・ヨガの思想だとされているようですが、私はこれをサーンキヤ哲学とヴェーダーンタ思想の統合と理解しました。

 「般若心経」は若い頃からさっぱり分からない経典でしたが、佐保田鶴治さんの解説で本当に良く分かりました。空の思想を説く経典では有りますが、最後のマントラが大事なんですね。般若心経が密教(タントラ)の経典なのが良く分かります。「理趣経」も読みました。男女の交合が菩薩の位だと言う理趣経、空海が大切にする理趣経はまるまる密教(タントラ)の経典で有り、仏教がヒンドゥーイズムに統合される様は一読の価値ありです。

 「臨済録」や「碧巌録」、そして「無門関」も読みましたが、インド人が静かに解脱体験の構造を追及しますのに中国人はおしゃべりや詩的表現が好きなのでこれを理解するのは難しい、仏教は中国風では理解するのが難しく、むしろヨガから入るのが分かり易いようです。

 道元の「正法蔵眼」はヨガの目で見ますととても分かり易い内容でした。道元の時間論、空間論、そして生死論は見事です。時間と私達との間に隙間は無いとの表現、「山動く」では主観と対象の間に隙間は無いとの表現、そして「生も一時の位なり、死も一時の位なり」、見事です。しかし、永遠の魂などが有ると言うのは外道の了見であるとの指摘には驚きました。今にして思えば、まさに仏教の思想を表しています。

 親鸞について書かれた「歎異抄」は親鸞の人となりを良く表現していました。親鸞の話の内容は解脱体験をした人の表現であり、ヨガをやった経歴の見えない親鸞はどこでどうして解脱体験をしたのでしょうか。また、歎異抄を読みますと宗教と信仰の違いについて考えさせられます。私の理解では宗教とは自己の探求なのですが、すると信仰とは?信仰とは自己の探求を神様にお預けする事なんでしょうね。

 ここまで色々と古典について感想を述べて来ましたが、古典と対峙します時に、この人達は皆、私にとって大切なヨガ・フレンドなのだと思いますし、また夫々が新しい思想との遭遇で有ったと感慨もひとしおです。

 ついでに

 「法華経」は剥いても剥いても種が出て来ない玉ねぎのような経典でしたし、フロイトの精神分析は取るに足りない思想でした。また空海の「般若心経秘鍵」は仏教を単なる教養と見なす時の天皇や貴族に向けた解説書で、遠回しに遠回しに説明する空海の苦労が滲み出る内容でした。