走るペンギン
私達の生活を構成する、主に心理的なものとは何でしょうか。内なる生の衝動と外への感情、そしてそれらを観察する意識、この3つでしょうか。
先ずは内なる生の衝動。食事をし、SEXをし、子供が生まれたら子育てをし、危険からは逃れる。これらはそれをそうとは意識しませんけれども、本能的な生への衝動、種の保存を求める内なるパワーを発揮する本能的な生の衝動ですね。若者があの娘が好きだと思う時、それは相性の良い異性を求める衝動ですが、その思いを言語化する事でその衝動を長く保持する事が出来ます。それに対して野生動物は一発勝負ですね。
次に外への感情。人は環境世界からの刺激に対して反応し、喜怒哀楽の感情を発生させます。感情はあくまでも環境世界からの刺激に対する反射覚、反応覚でして、環境世界からの刺激が無いのに泣いたり笑ったりしますと、私の世代ですと気違い、間違い、新市街と呼びます。欲しい物が手に入りますと喜びの感情が生まれ、欲しい物を失うと悲しみの感情が生まれ、そして欲しい物が手に入らないと怒りの感情が生まれます。しかし感情もまた生の衝動と同じく、それを言語化しないと長くは続きません。言葉を持たない母犬は子犬を取り上げられると3日は泣きますが、それを過ぎると忘れてしまいますでしょう。私達人間は言葉を持っていますので、大切な人を無くしますとあの時はああだった、この時はこうだったと振り返っては悲しみを保持し続けます。記憶を言葉で保持しないと、喉元過ぎれば熱さを忘れると言う事になりますね。
ここで言語化以前の衝動や感情は本能と考えて良いでしょう。
そして3番目の観察する意識ですが、これには言葉は有りませんで、ただじっと観察するだけです。意識は衝動と感情の上に有ってただ存在しています。
以上、私達を構成する心理的な3つの要素について述べましたが、衝動と感情については言葉によってそれを保持できると申し上げました。ここで言葉とは心、言葉=心と定義しても良いでしょう。そうしますと3番目の意識は言葉を持ちませんので、意識は心では有りません。
さて、この間NHKのテレビで走るペンギンと言うのを観ました。この種のペンギンは海から少し離れた所で卵を産み、そこで子ペンギンを育てるのですが、親ペンギンは海で魚を獲って来ては喉から魚を出して子ペンギンに与えます。そうして子ペンギンが有る程度育って来ますと、親ペンギンは子ペンギンに餌を与えるのをじらし、海へ向かって走り出します。子ペンギン達は餌が欲しいので必死に走って親ペンギンを追いかけます。親ペンギンは子ペンギン達に走るのを憶えさせる事で天敵の獣から逃げるすべを教えるのです。そして今度は、餌の魚を獲るためには海に入らないといけません。親ペンギンはまたも餌やりをじらして海まで走り、ついて来た子ペンギン達は恐々(こわごわ)と海に入りました。
感動しました。ペンギンは言葉を持ちませんからペンギンに心は無いでしょう。いや、有ったとしても心の働きは微弱。ペンギンは生きる為の本能だけで子ペンギン達を教育します。そして本能だけで食べ、交尾し、子育てをし、敵から逃げます。ペンギンは何の疑いも持たずに本能だけで一生を完結します。しかし、これはペンギンだけでは有りませんね。
ここで心と体について。身体は私達(心)の道具だから道具である体はよく手入れしましょうと言う表現はよく目にしますね。しかし体は本当に私達の道具でしょうか。心が体を道具として使う?これ、デカルトの「我、思うゆえに我有り」に通底しますよね。
先程の走るペンギンは言葉(心)を持たないのに本能(体)だけで生を完結しましたでしょう。
本当は心が体の道具なのです。
人間は他の動物達と違って高度で複雑な社会を営んでいますので、人が本能のままに生きますと社会から制裁を受けたり罰を受けたり抹殺されたりと、酷い目に遭います。なので本能(体)は心に命じて本能(体)の欲求を言葉(心)で正当化すると言う訳です。鈴木大拙が「理性は感情の走狗(そうく、使い走り)に過ぎぬ」と言うのがこれです。
私達の生活を構成する、主に心理的なものとは何でしょうか。内なる生の衝動と外への感情、そしてそれらを観察する意識、この3つでしょうか。
先ずは内なる生の衝動。食事をし、SEXをし、子供が生まれたら子育てをし、危険からは逃れる。これらはそれをそうとは意識しませんけれども、本能的な生への衝動、種の保存を求める内なるパワーを発揮する本能的な生の衝動ですね。若者があの娘が好きだと思う時、それは相性の良い異性を求める衝動ですが、その思いを言語化する事でその衝動を長く保持する事が出来ます。それに対して野生動物は一発勝負ですね。
次に外への感情。人は環境世界からの刺激に対して反応し、喜怒哀楽の感情を発生させます。感情はあくまでも環境世界からの刺激に対する反射覚、反応覚でして、環境世界からの刺激が無いのに泣いたり笑ったりしますと、私の世代ですと気違い、間違い、新市街と呼びます。欲しい物が手に入りますと喜びの感情が生まれ、欲しい物を失うと悲しみの感情が生まれ、そして欲しい物が手に入らないと怒りの感情が生まれます。しかし感情もまた生の衝動と同じく、それを言語化しないと長くは続きません。言葉を持たない母犬は子犬を取り上げられると3日は泣きますが、それを過ぎると忘れてしまいますでしょう。私達人間は言葉を持っていますので、大切な人を無くしますとあの時はああだった、この時はこうだったと振り返っては悲しみを保持し続けます。記憶を言葉で保持しないと、喉元過ぎれば熱さを忘れると言う事になりますね。
ここで言語化以前の衝動や感情は本能と考えて良いでしょう。
そして3番目の観察する意識ですが、これには言葉は有りませんで、ただじっと観察するだけです。意識は衝動と感情の上に有ってただ存在しています。
以上、私達を構成する心理的な3つの要素について述べましたが、衝動と感情については言葉によってそれを保持できると申し上げました。ここで言葉とは心、言葉=心と定義しても良いでしょう。そうしますと3番目の意識は言葉を持ちませんので、意識は心では有りません。
さて、この間NHKのテレビで走るペンギンと言うのを観ました。この種のペンギンは海から少し離れた所で卵を産み、そこで子ペンギンを育てるのですが、親ペンギンは海で魚を獲って来ては喉から魚を出して子ペンギンに与えます。そうして子ペンギンが有る程度育って来ますと、親ペンギンは子ペンギンに餌を与えるのをじらし、海へ向かって走り出します。子ペンギン達は餌が欲しいので必死に走って親ペンギンを追いかけます。親ペンギンは子ペンギン達に走るのを憶えさせる事で天敵の獣から逃げるすべを教えるのです。そして今度は、餌の魚を獲るためには海に入らないといけません。親ペンギンはまたも餌やりをじらして海まで走り、ついて来た子ペンギン達は恐々(こわごわ)と海に入りました。
感動しました。ペンギンは言葉を持ちませんからペンギンに心は無いでしょう。いや、有ったとしても心の働きは微弱。ペンギンは生きる為の本能だけで子ペンギン達を教育します。そして本能だけで食べ、交尾し、子育てをし、敵から逃げます。ペンギンは何の疑いも持たずに本能だけで一生を完結します。しかし、これはペンギンだけでは有りませんね。
ここで心と体について。身体は私達(心)の道具だから道具である体はよく手入れしましょうと言う表現はよく目にしますね。しかし体は本当に私達の道具でしょうか。心が体を道具として使う?これ、デカルトの「我、思うゆえに我有り」に通底しますよね。
先程の走るペンギンは言葉(心)を持たないのに本能(体)だけで生を完結しましたでしょう。
本当は心が体の道具なのです。
人間は他の動物達と違って高度で複雑な社会を営んでいますので、人が本能のままに生きますと社会から制裁を受けたり罰を受けたり抹殺されたりと、酷い目に遭います。なので本能(体)は心に命じて本能(体)の欲求を言葉(心)で正当化すると言う訳です。鈴木大拙が「理性は感情の走狗(そうく、使い走り)に過ぎぬ」と言うのがこれです。