意志を持たない
かくして心のはたらきのすべてが消え去ったならば、あたかも透明な宝石がそのかたわらの花などの色に染まるように、心は認識主体(真我)、認識器官(心理器官)、認識対象のうちのどれかにとどまり、それに染められる。これが定とよばれるものである。(ヨーガ・スートラ1-41)
私はこれまで「透明な宝石がそのかたわらの花などの色に染まる」のところを、心が澄み切って透明になれば、と理解していました。それはそうなのでしょうが、これには別の表現も有りますね。意志を持たなければ対象が正確に見える、と、こう表現しても良い気がします。
以前に受け身の態度になれば認識の表象が認識の対象により近づけると言う事を書きましたが、これと共通するお話でしょう。ああしてやろうこうしてやろうと言う意志を働かせますとその想念に邪魔されて、かえって対象が見えなくなり対象を逃してしまう。有りそうな事です。
ああしてやろうこうしてやろうは意志でして、インドのサーンキヤ哲学ではプラクリティ(現象世界)の範疇、そして意志の無い受け身の状態の事をプルシャ(真我、霊性)ととらえても良いでしょう。
ここで受け身の態度とは、周りからああだこうだと言われてそうですねそうですねと受け入れる事では有りません。ヨガではプラティヤーハーラ(制感)と言いまして、外部からの刺激には反応しない練習をします。ポイントは外部からの刺激に反応しない状態になったそのあとで、意志を働かせずに受け身の態度になる事です。
現実世界では意志を働かせないと生活出来ませんが、これは人の内面の半分。一方で意志を持たずに受け身の態度になれば対象が良く見える、これが人の内面の残りの半分、両方を行ったり来たりが良いようです。
イスラム教では1日に5回礼拝をするそうですが、これは意志の時と受け身の時の行ったり来たりなのでしょう。
ラーマクリシュナがサマーディ(解脱)の状態に有る時には弟子達が食事のお世話をしたりしてラーマクリシュナの生命の維持に努めましたように、解脱の状態では人間は生活が出来ません。ですから私達は、日常には意志を持って生活をし、その日のある時には意志を持たない時間を持つ習慣が出来れば良いですね。
意志を持たない、これは科学者の世界とはまる反対です。
かくして心のはたらきのすべてが消え去ったならば、あたかも透明な宝石がそのかたわらの花などの色に染まるように、心は認識主体(真我)、認識器官(心理器官)、認識対象のうちのどれかにとどまり、それに染められる。これが定とよばれるものである。(ヨーガ・スートラ1-41)
私はこれまで「透明な宝石がそのかたわらの花などの色に染まる」のところを、心が澄み切って透明になれば、と理解していました。それはそうなのでしょうが、これには別の表現も有りますね。意志を持たなければ対象が正確に見える、と、こう表現しても良い気がします。
以前に受け身の態度になれば認識の表象が認識の対象により近づけると言う事を書きましたが、これと共通するお話でしょう。ああしてやろうこうしてやろうと言う意志を働かせますとその想念に邪魔されて、かえって対象が見えなくなり対象を逃してしまう。有りそうな事です。
ああしてやろうこうしてやろうは意志でして、インドのサーンキヤ哲学ではプラクリティ(現象世界)の範疇、そして意志の無い受け身の状態の事をプルシャ(真我、霊性)ととらえても良いでしょう。
ここで受け身の態度とは、周りからああだこうだと言われてそうですねそうですねと受け入れる事では有りません。ヨガではプラティヤーハーラ(制感)と言いまして、外部からの刺激には反応しない練習をします。ポイントは外部からの刺激に反応しない状態になったそのあとで、意志を働かせずに受け身の態度になる事です。
現実世界では意志を働かせないと生活出来ませんが、これは人の内面の半分。一方で意志を持たずに受け身の態度になれば対象が良く見える、これが人の内面の残りの半分、両方を行ったり来たりが良いようです。
イスラム教では1日に5回礼拝をするそうですが、これは意志の時と受け身の時の行ったり来たりなのでしょう。
ラーマクリシュナがサマーディ(解脱)の状態に有る時には弟子達が食事のお世話をしたりしてラーマクリシュナの生命の維持に努めましたように、解脱の状態では人間は生活が出来ません。ですから私達は、日常には意志を持って生活をし、その日のある時には意志を持たない時間を持つ習慣が出来れば良いですね。
意志を持たない、これは科学者の世界とはまる反対です。