受け身の態度実験

 もう2年半になりますか、YouTube で同じ動画を毎晩観ています。トリスタン・マッキントッシュと言う若い女性歌手がリンダ・ロンシュタットの「ブルー バイユウ」を歌うのですが、この曲は音域が広く、また英語の歌詞を音符に乗せるのが難しく、これをお風呂で歌えるようになるのに2年も掛かりました。トリスタン・マッキントッシュは黒人の血が少し入っているようで、眼と唇がはっきりした美人です。

この動画、最初は若い女性歌手の、胸の開いた真っ白なワンピースのミニスカートから出ている健康的な両脚を眺めていたのですが、最近では彼女の大きな口に注目しています。曲の盛り上がるところで彼女は大きく口を開くのですが、あまりに大きく口を開けるので、日本人ではこんなに大きく口を開けられないよねと、つい感心してしまいます。そこでこのところ、この見慣れた動画を観る時に彼女が大きく口を開くところを注視しようと意識して待ち構えるのですが、何故かつい別の想念が現れまして、ハッと気が付くと大きな口の場面が過ぎており、やれやれ見逃したわいが何日も続きました。目には見えている筈なのに心が見ていない。これは面白い現象ですね。見よう見ようと思っているのに、その場面が近づくと他の想念に意識がかっさらわれる、何故か気が散って、目には見えているのに心には見えていない。これ、瞑想の逆パターンですよね。

どうしたらあの場面を見逃さないように出来るのだろうか。これを実験してみる事にしました。

ソファーでリラックスし、次にテレビ画面を見よう見ようと思わずに心を脱落させていますと、心は受け身の態度になります。

そして受け身の態度のままYouTube の画面を観ていますと、なんと全ての場面が見えました。見ようとしない方が見える。いや、見えると言うよりも向こうから入って来る。そして動画は見えるけれども情緒は動かない。

心が動いていますと認識の対象と認識の表象の間のずれが大きくなり、心が受け身の態度になると認識の表象が認識の対象に近づいて来る、と言う事でしょうか。

道元の正法眼蔵にも心身脱落、脱落心身の言葉が有りますね。