精神分析?
青年時代にフロイトの「精神分析入門」を読みました。大変分厚い本でしたがフロイトの主張は主に以下のような事だったと思います。
人間の頭の中を三角形に描き、三角形の底部に「イド(本能)」を置き、その上に「超自我(親や学校や社会からの教育によって形成された意識)」を置き、そして三角形の最上部に「自我(理性)」を置く。本能を低劣なものと考え、低劣な本能の働きを教育で得た意識で抑圧し、更には成長して獲得した理性で完全に抑圧して社会生活に適応して行く、だいたいこんなところでしたでしょう。キリスト教(イエスキリストでは有りません)の影響でしょうか、本能を(克服すべき)劣悪なものとしてとらえていますね。
フロイトやユングの精神分析はアメリカでは社会的に普通に認められていて、セレブ等は普通にカウンセリングを受けたりしていますね。そして日本もアメリカ文化の影響を大きく受けていますので、このフロイトの考えも社会的に普通に通用していますでしょう。本能だけの動物=野蛮=低劣、本当でしょうか。
私も30才でヨガに出会うまではフロイトの精神分析を当たり前のように受け入れていました。しかし本能は非常にパワフルで、この本能の力をインドではシャクティと呼びまして、非常に大切にしています。シャクティとは女性の性的なパワーを神格化したものです。
インドのサーンキヤ哲学は二元論でして、この世界の大元にプラクリティ(現象世界)とプルシャ(霊性)の二つを立てます。そしてこのサーンキヤ哲学は発展してタントラ化するのですが、タントラではサーンキヤのプラクリティをシャクティと呼ぶようになります。シャクティのルネッサンスです。
サーンキヤ哲学では人間の心も身体も、そして環境世界もひとまとめにしてプラクリティ(シャクティ)の範疇に入れ、それとはまったく別にプルシャ(霊性)が有るのだと言います。ですからフロイトの言う自我(理性)も超自我(教育的意識)もイド(本能)も全て一緒にプラクリティ(シャクティ)の範疇に入ります。本能が低劣で理性が最上位?とんでも有りません。インド思想には善悪も優劣も有りません、ただ事象が有るだけ。
サーンキヤ哲学でのプラクリティ(シャクティ)の展開を観て見ますと、先ずブッディ(理性、統覚)が現れ、次にアハンカーラ(自我意識)が現れ、そしてインドリヤ(感情等の心を含む感覚器官と行動器官)が現れ、更には環境世界のタンマトラ(素粒子)やブータ(原子)が現れる、これはフロイトより遥かに雄大な世界観です。
鈴木大拙が面白い事を言っています、「理性は感情の走狗(使い走り)に過ぎぬ」。感情が己を正当化する為に理屈を言いまくる、傑作ですね。インドのサーンキヤ哲学はフロイトの精神分析のコペルニクス的転換、歴史的にはサーンキヤ哲学の方がフロイトより遥かに古いのに、どうした事でしょうか。
青年時代にフロイトの「精神分析入門」を読みました。大変分厚い本でしたがフロイトの主張は主に以下のような事だったと思います。
人間の頭の中を三角形に描き、三角形の底部に「イド(本能)」を置き、その上に「超自我(親や学校や社会からの教育によって形成された意識)」を置き、そして三角形の最上部に「自我(理性)」を置く。本能を低劣なものと考え、低劣な本能の働きを教育で得た意識で抑圧し、更には成長して獲得した理性で完全に抑圧して社会生活に適応して行く、だいたいこんなところでしたでしょう。キリスト教(イエスキリストでは有りません)の影響でしょうか、本能を(克服すべき)劣悪なものとしてとらえていますね。
フロイトやユングの精神分析はアメリカでは社会的に普通に認められていて、セレブ等は普通にカウンセリングを受けたりしていますね。そして日本もアメリカ文化の影響を大きく受けていますので、このフロイトの考えも社会的に普通に通用していますでしょう。本能だけの動物=野蛮=低劣、本当でしょうか。
私も30才でヨガに出会うまではフロイトの精神分析を当たり前のように受け入れていました。しかし本能は非常にパワフルで、この本能の力をインドではシャクティと呼びまして、非常に大切にしています。シャクティとは女性の性的なパワーを神格化したものです。
インドのサーンキヤ哲学は二元論でして、この世界の大元にプラクリティ(現象世界)とプルシャ(霊性)の二つを立てます。そしてこのサーンキヤ哲学は発展してタントラ化するのですが、タントラではサーンキヤのプラクリティをシャクティと呼ぶようになります。シャクティのルネッサンスです。
サーンキヤ哲学では人間の心も身体も、そして環境世界もひとまとめにしてプラクリティ(シャクティ)の範疇に入れ、それとはまったく別にプルシャ(霊性)が有るのだと言います。ですからフロイトの言う自我(理性)も超自我(教育的意識)もイド(本能)も全て一緒にプラクリティ(シャクティ)の範疇に入ります。本能が低劣で理性が最上位?とんでも有りません。インド思想には善悪も優劣も有りません、ただ事象が有るだけ。
サーンキヤ哲学でのプラクリティ(シャクティ)の展開を観て見ますと、先ずブッディ(理性、統覚)が現れ、次にアハンカーラ(自我意識)が現れ、そしてインドリヤ(感情等の心を含む感覚器官と行動器官)が現れ、更には環境世界のタンマトラ(素粒子)やブータ(原子)が現れる、これはフロイトより遥かに雄大な世界観です。
鈴木大拙が面白い事を言っています、「理性は感情の走狗(使い走り)に過ぎぬ」。感情が己を正当化する為に理屈を言いまくる、傑作ですね。インドのサーンキヤ哲学はフロイトの精神分析のコペルニクス的転換、歴史的にはサーンキヤ哲学の方がフロイトより遥かに古いのに、どうした事でしょうか。