火の無い所に煙は立たぬ

 火の無い所に煙は立たぬ。これは、証拠が有るのだから悪事は明白だと言う日本のことわざ、慣用句ですね。火が燃え上がるとそこには煙が立つ、従って煙が見えるのはそこに火が有るからだと言う、インド思想の推論の例えとしても出て来ます。

 しかし、ここではそのような推論としてこの慣用句は使いません。火は肉体で煙は心。火が有るから煙が有る(身体が有るから心が有る)。火と煙(身体と心)は別物だけど不即不離、面白いですね。

 私は30才でヨガに出会うまでは私の主体は心、更に言うならば自我意識だと思っていました。心が主体で身体は付属品と言う訳です。しかし、それは違いました。身体が主体で心は付属品、これが正解でした。火が燃え上がると煙が立ち上がるように、赤ちゃんが生まれて身体が現れるとそこに心が立ち上がるのです。そして身体が発育しますと心も共に発達します。そして更に身体が老化し、死んでしまいますと心も消滅、人格(パーソナリティ)は消えて無くなります。怖いですね。しかしここでインド人は考えました。輪廻転生する霊魂(霊性)は有るのだろうか。

 インドのサーンキヤ哲学は心と身体と環境世界をひとまとめにしてそれをプラクリティと呼びます。そしてそれとは全く別に霊性が有る、この霊性をプルシャと言います。身体と心が消え果てても霊性は残る、人格(パーソナリティ)は消え果てても霊性は残る、一安心ですね。

 しかし、サーンキヤ哲学をバックボーンに持つ古典ヨガの経典ヨーガスートラではヨーガの目的は心の働きを消滅(停止)させる事として、心の詳細を検討します。ヤマ(禁戒)、ニヤマ(勧戒)、アーサナ(坐法)、プラーナヤーマ(調息)、プラティヤーハーラ(制感)、ダーラナ(集中)、ディヤーナ(集中の継続)、サマーディ(解脱)、のヨガの8段階の修行で心を制御し、そして心から霊性への跳躍が起こります。

 サマーディ(解脱)の際には心(人格、パーソナリティ)は消滅して霊性が現れます。そこには喜怒哀楽の感情は無く、ただ驚きと歓びが有って、その有様をサット(有る事)、チット(有る事を知る事)、アーナンダ(有る事を知る事で湧き上がる歓び)と言います。

 古典ヨガのヨーガスートラは心の働きを消滅(停止)させる事に主眼を置き、身体についてはあまり関心が無いようです。アーサナ(坐法)のところで快適な場所で快適に坐ると言うだけ。しかしヨーガスートラから500年余りあとに成立したハタ・ヨガでは身体を重視し、またイマジネーションを働かせます。多数のアーサナ(ヨガのポーズ)とプラーナヤーマ(呼吸法)を用いて(心が)体に変容を加え、そしてそれによって今度は体が心に変容を加えます。心を使って身体に変容を加え、更に身体が心に変容を加えると言う、まるで錬金術のようなやり方ですね。古典ヨガのヨーガスートラとハタ・ヨガのどちらが優れているのか私には分かりませんが、ハタ・ヨガの方が体と心は別物だけれど不即不離と言うところは明確にしています。

 身体が不調になると心も不調になりますが、逆に心が穏やかで無いと身体も緊張します。なので私は日常生活の中で、出来るだけ心が身体に無駄に干渉しないよう、少しばかり心と身体を切り離すよう心掛けています。