世界は認識論で出来ている
哲学とは詰まるところ認識論のようですね。
認識には認識の主観と認識の対象と認識の表象が有りますが、人は見たいようにものを見ますので認識の対象と認識の表象とは別物。そこでこの認識の主観と対象と表象の3つの関係について人々は長く悩んで来ました。真実はどこに有るのか。
古典的な西洋の哲学では認識の対象に神を介在させて絶対的なものとし、この絶対的な認識の対象に対していかに認識の表象を近づけて一体化させるかの努力をして認識の対象と認識の主観の一致、つまり神と人間の合一(神を知る事)を目指したのでしょう(レヴィ=ストロース以降認識の対象は神とは切り離されますが)。
一方でインドでは認識の主観にも対象にも表象にも神を介在させません。認識の対象が西洋哲学では絶対的なのに対してインド哲学では相対的と言えますね。また西洋哲学は推理哲学ですがインド哲学は体験哲学です。
ヨガはインド思想の根本で有り、インドではヨガのサマーディ(解脱体験)をどう理解しどう説明するかで色々と思想を展開します。
インドのサーンキヤ哲学はヨガの哲学で有り、ヨガの実践方法を示すヨーガスートラはこのサーンキヤ哲学を背骨にしています。サーンキヤ哲学は二元論です。世界の大元にプルシャ(絶対主観、真我、魂)とプラクリティ(物質原理、現象世界)を立てます。プラクリティはプルシャに対して現象世界の展開を踊って見せ、あなたはプラクリティでは無くてプルシャなのよと教え、プラクリティの展開を見ているだけのプルシャは自分がプラクリティでは無くプルシャである事を知ります。そしてこれを解脱と言います。
ここで大切なのは、心と身体と環境世界は全てプラクリティ(現象世界)の範疇に有り、それとは全く別にプルシャ(絶対主観、真我、魂)が存在すると言う事です。サーンキヤ哲学は「有」の哲学です。お話を先程の認識論に戻しますと、認識の主観も対象も表象も全てプルシャとプラクリティの範疇に入り、そして実在すると言う事です。ここでは心は身体の一部である事を押さえておきましょう。
次にヴェーダーンタ思想。ヴェーダーンタのンタは最後のとか終わりのとか言う意味だそうでして、ヴェーダの最後の思想と言う事になります。先程のサーンキヤ哲学はクシャトリアの思想でしたがバラモンはこの思想を取り込んでバラモンの思想と認定し、更にはサーンキヤ哲学を叩き台にしてヴェーダーンタ思想に発展させます。ヴェーダーンタはウパニシャッドとも言いまして、「有」の哲学の一元論です。
ヨガのサマーディ(解脱体験)をどう理解してどう説明するか。ヴェーダーンタ思想では認識の対象、つまり現象世界をマーヤー(幻)であるとして退けます。現象世界は幻で有ってその本質はブラフマン(梵)、そしてブラフマン(梵)が個人に内在する時、それをアートマン(絶対主観、真我)と呼びます。ヴェーダーンタ思想はブラフマン=アートマンの一元論です。そしてアートマンはサーンキヤ哲学のプルシャの事です。
お話を先程の認識論に戻しますと、ヴェーダーンタ思想では認識の対象(現象世界)はマーヤー(幻)ですので実在しません。そして認識の対象がマーヤー(幻)ですから認識の表象もマーヤー(幻)と言う事になります。実在するのは認識の主観だけ。そして認識の主観とは言いますがこれは心の働きでは無くここでは絶対主観、魂、アートマンの事です。ヴェーダーンタ思想では意識(霊性)が心を作り心が現象世界を作りますから意識(霊性)だけが実在です。
私はヴェーダーンタ思想よりサーンキヤ哲学が好きですね。
ヨガのサマーディ(解脱体験)をどう理解してどう説明するか。原始仏教の肝は縁起説法と無常説法です。縁起説法とは縁によって起こる、つまりAによってBが起こりBによってCが起こり・・・EによってFが起こる。ここでFは苦で有り、Aはそもそもの苦の原因です。因縁の因(直接の原因)と縁(間接の原因)とによって世界は作られる、つまり現象世界は因と縁とで編み上げられた仮の姿と言う事になります。ここで因と縁とによって編み上げられた手毬を想像して見ましょう。因と縁とで編み上げられた手毬の中は空っぽ、これを空の思想と言います。そして恐ろしい事に、手毬の中には魂(霊性、絶対主観)も有りません。
そして仏教の無常説法、これは私の考えでは認識の過程をも示しています。時間とは経過では無く変化。認識作用は一瞬の事ですがそこには変化(時間)が有り、認識作用が止まると世界は一瞬にして消滅します。
お話を先程の認識論に戻しますと、仏教の縁起説法や無常説法によりますと認識の対象は因と縁とで編み上げられた仮の姿ですから実在はしません。ですから認識の表象も実在せず、そして恐ろしい事に認識の主観も(手毬の中は空っぽですから)実在しない事になります。これはヴェーダーンタより一歩踏み込んだ考えですね。
ここでインドの3大思想のサーンキヤ哲学とヴェーダーンタ思想と仏教とを認識論で整理して見ますとサーンキヤ哲学は認識の主観も対象も実在するとする二元論の「有」の思想、ヴェーダーンタ思想は認識の主観だけが実在するとする一元論の「有」の思想、そして仏教は認識の対象も主観も実在しないと言う「空」の思想と言う事になります。
ここでお話を変えましょう。輪廻転生の考えはインド思想の前提として有ります。そうしますと、「有」の哲学であるサーンキヤ哲学やヴェーダーンタ思想では輪廻転生をすんなりと理解出来るのですが「空」の哲学である仏教では何が輪廻転生するのでしょうか。
大乗仏教がタントラ化する直前の頃だと思うのですが、仏教には瑜伽行派の唯識説と言うのが有ります。それによれば認識の主観も対象も実在せず、認識の表象のみが実在する、そして認識の表象と阿頼耶識(記憶の倉庫)との永遠の循環だけが輪廻転生すると言う主張のようです。これはどう考えても頭の使い過ぎ、考えすぎ、やりすぎだと思うのですが、これが認識論の行き着くところなんでしょうか。
サーンキヤ哲学をバックボーンに持つヨーガスートラはこの唯識説を否定していますが、瑜伽行派の唯識説は認識論としては大変面白く、認識論に大きな興味を持たせてくれます。
哲学には認識論だけで無く色々なアプローチが有るのでしょうが、宗教と哲学と認識論の関係は大変面白いですね。西洋の宗教は神を絶対的存在として人間と切り離しますがインドの宗教では神は自然の中にも人間の中にも普遍的に存在しますから「私とは何か」を追及する事で神を追及します。そして私はこのインドの考え方が好きです。
哲学とは詰まるところ認識論のようですね。
認識には認識の主観と認識の対象と認識の表象が有りますが、人は見たいようにものを見ますので認識の対象と認識の表象とは別物。そこでこの認識の主観と対象と表象の3つの関係について人々は長く悩んで来ました。真実はどこに有るのか。
古典的な西洋の哲学では認識の対象に神を介在させて絶対的なものとし、この絶対的な認識の対象に対していかに認識の表象を近づけて一体化させるかの努力をして認識の対象と認識の主観の一致、つまり神と人間の合一(神を知る事)を目指したのでしょう(レヴィ=ストロース以降認識の対象は神とは切り離されますが)。
一方でインドでは認識の主観にも対象にも表象にも神を介在させません。認識の対象が西洋哲学では絶対的なのに対してインド哲学では相対的と言えますね。また西洋哲学は推理哲学ですがインド哲学は体験哲学です。
ヨガはインド思想の根本で有り、インドではヨガのサマーディ(解脱体験)をどう理解しどう説明するかで色々と思想を展開します。
インドのサーンキヤ哲学はヨガの哲学で有り、ヨガの実践方法を示すヨーガスートラはこのサーンキヤ哲学を背骨にしています。サーンキヤ哲学は二元論です。世界の大元にプルシャ(絶対主観、真我、魂)とプラクリティ(物質原理、現象世界)を立てます。プラクリティはプルシャに対して現象世界の展開を踊って見せ、あなたはプラクリティでは無くてプルシャなのよと教え、プラクリティの展開を見ているだけのプルシャは自分がプラクリティでは無くプルシャである事を知ります。そしてこれを解脱と言います。
ここで大切なのは、心と身体と環境世界は全てプラクリティ(現象世界)の範疇に有り、それとは全く別にプルシャ(絶対主観、真我、魂)が存在すると言う事です。サーンキヤ哲学は「有」の哲学です。お話を先程の認識論に戻しますと、認識の主観も対象も表象も全てプルシャとプラクリティの範疇に入り、そして実在すると言う事です。ここでは心は身体の一部である事を押さえておきましょう。
次にヴェーダーンタ思想。ヴェーダーンタのンタは最後のとか終わりのとか言う意味だそうでして、ヴェーダの最後の思想と言う事になります。先程のサーンキヤ哲学はクシャトリアの思想でしたがバラモンはこの思想を取り込んでバラモンの思想と認定し、更にはサーンキヤ哲学を叩き台にしてヴェーダーンタ思想に発展させます。ヴェーダーンタはウパニシャッドとも言いまして、「有」の哲学の一元論です。
ヨガのサマーディ(解脱体験)をどう理解してどう説明するか。ヴェーダーンタ思想では認識の対象、つまり現象世界をマーヤー(幻)であるとして退けます。現象世界は幻で有ってその本質はブラフマン(梵)、そしてブラフマン(梵)が個人に内在する時、それをアートマン(絶対主観、真我)と呼びます。ヴェーダーンタ思想はブラフマン=アートマンの一元論です。そしてアートマンはサーンキヤ哲学のプルシャの事です。
お話を先程の認識論に戻しますと、ヴェーダーンタ思想では認識の対象(現象世界)はマーヤー(幻)ですので実在しません。そして認識の対象がマーヤー(幻)ですから認識の表象もマーヤー(幻)と言う事になります。実在するのは認識の主観だけ。そして認識の主観とは言いますがこれは心の働きでは無くここでは絶対主観、魂、アートマンの事です。ヴェーダーンタ思想では意識(霊性)が心を作り心が現象世界を作りますから意識(霊性)だけが実在です。
私はヴェーダーンタ思想よりサーンキヤ哲学が好きですね。
ヨガのサマーディ(解脱体験)をどう理解してどう説明するか。原始仏教の肝は縁起説法と無常説法です。縁起説法とは縁によって起こる、つまりAによってBが起こりBによってCが起こり・・・EによってFが起こる。ここでFは苦で有り、Aはそもそもの苦の原因です。因縁の因(直接の原因)と縁(間接の原因)とによって世界は作られる、つまり現象世界は因と縁とで編み上げられた仮の姿と言う事になります。ここで因と縁とによって編み上げられた手毬を想像して見ましょう。因と縁とで編み上げられた手毬の中は空っぽ、これを空の思想と言います。そして恐ろしい事に、手毬の中には魂(霊性、絶対主観)も有りません。
そして仏教の無常説法、これは私の考えでは認識の過程をも示しています。時間とは経過では無く変化。認識作用は一瞬の事ですがそこには変化(時間)が有り、認識作用が止まると世界は一瞬にして消滅します。
お話を先程の認識論に戻しますと、仏教の縁起説法や無常説法によりますと認識の対象は因と縁とで編み上げられた仮の姿ですから実在はしません。ですから認識の表象も実在せず、そして恐ろしい事に認識の主観も(手毬の中は空っぽですから)実在しない事になります。これはヴェーダーンタより一歩踏み込んだ考えですね。
ここでインドの3大思想のサーンキヤ哲学とヴェーダーンタ思想と仏教とを認識論で整理して見ますとサーンキヤ哲学は認識の主観も対象も実在するとする二元論の「有」の思想、ヴェーダーンタ思想は認識の主観だけが実在するとする一元論の「有」の思想、そして仏教は認識の対象も主観も実在しないと言う「空」の思想と言う事になります。
ここでお話を変えましょう。輪廻転生の考えはインド思想の前提として有ります。そうしますと、「有」の哲学であるサーンキヤ哲学やヴェーダーンタ思想では輪廻転生をすんなりと理解出来るのですが「空」の哲学である仏教では何が輪廻転生するのでしょうか。
大乗仏教がタントラ化する直前の頃だと思うのですが、仏教には瑜伽行派の唯識説と言うのが有ります。それによれば認識の主観も対象も実在せず、認識の表象のみが実在する、そして認識の表象と阿頼耶識(記憶の倉庫)との永遠の循環だけが輪廻転生すると言う主張のようです。これはどう考えても頭の使い過ぎ、考えすぎ、やりすぎだと思うのですが、これが認識論の行き着くところなんでしょうか。
サーンキヤ哲学をバックボーンに持つヨーガスートラはこの唯識説を否定していますが、瑜伽行派の唯識説は認識論としては大変面白く、認識論に大きな興味を持たせてくれます。
哲学には認識論だけで無く色々なアプローチが有るのでしょうが、宗教と哲学と認識論の関係は大変面白いですね。西洋の宗教は神を絶対的存在として人間と切り離しますがインドの宗教では神は自然の中にも人間の中にも普遍的に存在しますから「私とは何か」を追及する事で神を追及します。そして私はこのインドの考え方が好きです。