義父とのお別れ
3月14日の夕刻に妻の実家から電話が有り妻の父親の様子がかなり危ない、離れてお住いの娘さん達はすぐにでも顔を見にいらっしゃいと訪問看護の人が言っていると言います。今日はもう電車も無いし妻が行くのは明日の朝早くにしようと決めました。それでもたぶん間に合うだろう。父上は大正15年の生まれですから現在は95才の筈です。
3月15日。家を早く出た妻から電話が有り、今は新幹線に乗る前だけど既に今朝の7時半前に亡くなってしまったと泣き声で妻が言います。そこで一旦うちに帰って夫婦一緒に行く事にしようと決めました。お昼前にうちを出て新幹線ひかりで米原へ、そして特急白鷺に乗り換えて福井駅へ、そして更に越前鉄道に乗り換えて終点勝山へ向かうのですが電車に乗っている時間だけでも4時間ですから妻の実家に着くまでに5時間は掛かりました。大変遅くなりましたと安置された御遺体にお線香をあげますとお通夜は17日、そして告別式は18日に決まったとの事。そして役に立たない私と妻のお姉さんのご主人の2人は近くのホテルに4連泊する事になりました。
3月16日。自宅での前通夜と言う事になります。お坊さんの読経が終わったあと近い親族や喪主長男のお友達12人程で大変盛り上がりました。が、私には誰が誰だかさっぱり分からない。えへらえへらニコニコとしながら一緒にお酒をいただいていたら結構酔っぱらってしまいました。そして快適なホテルに戻ったお姉さんのご主人とはしばらく近況などを語り合い、翌日に備えて日付が変わる前には就寝しました。
3月17日。お通夜は18時からなのですがコロナ下と言う事で回り焼香の親族葬と言う形を取るそうで、受付は16時からなのですが受付を終えた人は受付場所に溜まらずにお坊さんの読経も始まらないまま次々にお焼香を済ませます。今は長男が社長ですが父上は長く社長をされていたので弔問客も550人程でしょうか、近い親族は椅子に腰かけて弔問客を待つのですが次々にお焼香に来られるのでその度に立礼でご挨拶をしますので立ったり腰掛けたりの忙しい事、かなり堪えました。
葬儀場には沢山の供花が並んでいて余りにその数が多いので、私やお姉さんのご主人の場合は供花では無く供菓となっていました。明日の告別式が終わったあとにお菓子のお持たせになるのだそうです。こう言う風習は私の地元の熊本では見ませんので珍しく思いました。
3月18日。午前10時から告別式です。告別式は親族のみで、30人ばかりの参列でした。式が終わりますとバスで焼き場へ行きますが焼き場には饗応の部屋が無く、火葬が終わるまでの2時間ばかりは元の斎場に戻り、お骨を拾わない人達はそこでお弁当を貰って帰宅します。
焼き場に戻りますとごく近い親族だけでお骨を拾うのですが、お骨を入れる袋の小さいのには驚きました。私の父の時は熊本の焼き場でしたが大きな骨壺に殆どの骨を入れましたし、10数年後の母の時には少し小めな骨壺にして貰いましたがお骨の大半は入れたものです。地域によって風習は随分と違うものですね。
3月19日。朝からお寺で供養が有ります。大昔はお葬式のお寺も郊外の焼き場も(焼くのに3時間は掛かりましたね)それはそれは寒かったのですが、読経の間にはあの頃の寒さを思い出していました。お経が終わりますとお坊さんから説明が有ります。
初七日までは毎日お坊さんが来宅してお経をあげ、初七日のあとはそれが1週間毎になり、そして49日のあとに納骨になるのだそうです。これでは施主は堪りませんね。最近ではお葬式のあとに初七日の法要もやってしまいますでしょう。
伝統(しきたり)は怖い。
妻や妻のお姉さんはお葬式のあと2、3日はお家の片付けの手伝いで残る事にしましたが私とお姉さんのご主人はここで帰宅する事にしました。私は電車に乗るのが苦手で列車のどっちが自由席なのか分からないのですが、お兄さんが教えてくれたのでスムーズに乗る事が出来ました。
自宅の最寄り駅に着く頃にはすっかり日は暮れていて、そしてまさかの土砂降り。なかなかタクシーも来ず閉口しましたがなんとか帰宅出来ました。さあて、残された母上の次はいよいよ自分達の番であります。
3月14日の夕刻に妻の実家から電話が有り妻の父親の様子がかなり危ない、離れてお住いの娘さん達はすぐにでも顔を見にいらっしゃいと訪問看護の人が言っていると言います。今日はもう電車も無いし妻が行くのは明日の朝早くにしようと決めました。それでもたぶん間に合うだろう。父上は大正15年の生まれですから現在は95才の筈です。
3月15日。家を早く出た妻から電話が有り、今は新幹線に乗る前だけど既に今朝の7時半前に亡くなってしまったと泣き声で妻が言います。そこで一旦うちに帰って夫婦一緒に行く事にしようと決めました。お昼前にうちを出て新幹線ひかりで米原へ、そして特急白鷺に乗り換えて福井駅へ、そして更に越前鉄道に乗り換えて終点勝山へ向かうのですが電車に乗っている時間だけでも4時間ですから妻の実家に着くまでに5時間は掛かりました。大変遅くなりましたと安置された御遺体にお線香をあげますとお通夜は17日、そして告別式は18日に決まったとの事。そして役に立たない私と妻のお姉さんのご主人の2人は近くのホテルに4連泊する事になりました。
3月16日。自宅での前通夜と言う事になります。お坊さんの読経が終わったあと近い親族や喪主長男のお友達12人程で大変盛り上がりました。が、私には誰が誰だかさっぱり分からない。えへらえへらニコニコとしながら一緒にお酒をいただいていたら結構酔っぱらってしまいました。そして快適なホテルに戻ったお姉さんのご主人とはしばらく近況などを語り合い、翌日に備えて日付が変わる前には就寝しました。
3月17日。お通夜は18時からなのですがコロナ下と言う事で回り焼香の親族葬と言う形を取るそうで、受付は16時からなのですが受付を終えた人は受付場所に溜まらずにお坊さんの読経も始まらないまま次々にお焼香を済ませます。今は長男が社長ですが父上は長く社長をされていたので弔問客も550人程でしょうか、近い親族は椅子に腰かけて弔問客を待つのですが次々にお焼香に来られるのでその度に立礼でご挨拶をしますので立ったり腰掛けたりの忙しい事、かなり堪えました。
葬儀場には沢山の供花が並んでいて余りにその数が多いので、私やお姉さんのご主人の場合は供花では無く供菓となっていました。明日の告別式が終わったあとにお菓子のお持たせになるのだそうです。こう言う風習は私の地元の熊本では見ませんので珍しく思いました。
3月18日。午前10時から告別式です。告別式は親族のみで、30人ばかりの参列でした。式が終わりますとバスで焼き場へ行きますが焼き場には饗応の部屋が無く、火葬が終わるまでの2時間ばかりは元の斎場に戻り、お骨を拾わない人達はそこでお弁当を貰って帰宅します。
焼き場に戻りますとごく近い親族だけでお骨を拾うのですが、お骨を入れる袋の小さいのには驚きました。私の父の時は熊本の焼き場でしたが大きな骨壺に殆どの骨を入れましたし、10数年後の母の時には少し小めな骨壺にして貰いましたがお骨の大半は入れたものです。地域によって風習は随分と違うものですね。
3月19日。朝からお寺で供養が有ります。大昔はお葬式のお寺も郊外の焼き場も(焼くのに3時間は掛かりましたね)それはそれは寒かったのですが、読経の間にはあの頃の寒さを思い出していました。お経が終わりますとお坊さんから説明が有ります。
初七日までは毎日お坊さんが来宅してお経をあげ、初七日のあとはそれが1週間毎になり、そして49日のあとに納骨になるのだそうです。これでは施主は堪りませんね。最近ではお葬式のあとに初七日の法要もやってしまいますでしょう。
伝統(しきたり)は怖い。
妻や妻のお姉さんはお葬式のあと2、3日はお家の片付けの手伝いで残る事にしましたが私とお姉さんのご主人はここで帰宅する事にしました。私は電車に乗るのが苦手で列車のどっちが自由席なのか分からないのですが、お兄さんが教えてくれたのでスムーズに乗る事が出来ました。
自宅の最寄り駅に着く頃にはすっかり日は暮れていて、そしてまさかの土砂降り。なかなかタクシーも来ず閉口しましたがなんとか帰宅出来ました。さあて、残された母上の次はいよいよ自分達の番であります。