著衣喫飯屙屎送尿(ちゃくいきっぱんあしそうにょう)
着衣喫飯屙屎送尿とは臨済録の中に有る言葉でして、着衣(服を着る)喫飯(飯を食う)屙屎(大便をする)送尿(おしっこをする)の意だそうです。臨済録は禅宗の臨済宗の開祖臨済の行いや言葉を記録したものだそうでして若い頃に読みました。この言葉が臨済録のどのあたりに有ったのかは忘れましたがこれは良く憶えています。有る時に弟子が仏の悟りの境地とはどのようなものでしょうかと聞きますと臨済が著衣喫飯屙屎送尿(ちゃくいきっぱんあしそうにょう)と答えたのだそうです。しかし屙屎(あし)なんて漢字は読めませんね。今の中国人でも読めませんでしょうし、こんな難しい表現で読者を脅かして欲しく無いものです。
若い時にこれを読んだ私は正直腹が立ちました。解脱の境地が身体上の日常生活で有るならば、何も苦労して禅の修業をする必要が有るものか。
その頃には気付きませんでしたが、中国に限らず禅の言葉には解脱体験をしたあとの境地は表現されていますが解脱体験に至る方法や解脱体験の構造は教えてくれません。高校の数学の時間に先生が問題の下に解答に至る式をすらすらと書いてくれたものですが、問題を読んでどうしてこの式が思いつくのかを教えてくれませんでした。回答を知りたいのでは無く回答に至る発想や方法を知りたかったのに教えてくれなかった。禅の言葉には丁度これと同じような歯がゆさを感じるのです。
私は30才の時に良い先生についてヨガの練習を始めまして、それに合わせてヨガについての本も色々と勉強しました。そうしますと、ヨガには解脱体験に至る方法や解脱体験の構造が書かれた経典が有るのです。ヨーガ・スートラは解脱体験に至る方法を教えてくれますしサーンキヤ・カーリカーは解脱体験の構造を教えてくれます。そしてこう言った経典を念頭に置いてヨガの練習をしますと大変効果が有ります。
ヨガはインド思想の根本です。ですからヨガが分かって来ますとサーンキヤ哲学が分かって来ますしヴェーダーンタ思想も、そして仏教も分かって来ます。更にはサーンキヤの発展形で有るタントラも分かるようになりました。そして。
若き日の実存の悩み。私とは何者か?生きる意味とは?私は何処から来て何処へ行くのか?そう言った哲学の探求が進み、今では読みたい本も無くなって来ました。そうしますと空の巣症候群とでも言いましょうか、毎日が空しい。朝起きて3度の食事を摂り買い物がてらに散歩をし、昼間はPCやスマホでニュースを見たりSNSで友人達とのやり取り、夜になってお風呂のあとは夫婦でテレビ。こんな事をしていて良いのか。
最近、玄関を出て陽に当たりながら煙草を吸っていましたら、あの、臨済の言葉が浮かんで来ました。著衣喫飯屙屎送尿(ちゃくいきっぱんあしそうにょう)。やりたい事をやったあとに残るのは身体的な日常生活。やりたい事をやり終えたあとの抜け感がこれだったのか。こんな事で毎日を過ごしていて良いのだろうかと言う自責の念がすっと消えて気持ちが楽になりました。まあしかし、臨済はこんな事を言いたかった訳では無かったのでしょうがね。
しかしこのような抜け感、哲学の探求に限らず人生全般にもこれは言えそうな気がします。
仕事について結婚をし、子育てをして会社をしっかり勤め上げ、振り返って悔いの無いように両親を見送り、そのうえに何を望みましょうか。
着衣喫飯屙屎送尿とは臨済録の中に有る言葉でして、着衣(服を着る)喫飯(飯を食う)屙屎(大便をする)送尿(おしっこをする)の意だそうです。臨済録は禅宗の臨済宗の開祖臨済の行いや言葉を記録したものだそうでして若い頃に読みました。この言葉が臨済録のどのあたりに有ったのかは忘れましたがこれは良く憶えています。有る時に弟子が仏の悟りの境地とはどのようなものでしょうかと聞きますと臨済が著衣喫飯屙屎送尿(ちゃくいきっぱんあしそうにょう)と答えたのだそうです。しかし屙屎(あし)なんて漢字は読めませんね。今の中国人でも読めませんでしょうし、こんな難しい表現で読者を脅かして欲しく無いものです。
若い時にこれを読んだ私は正直腹が立ちました。解脱の境地が身体上の日常生活で有るならば、何も苦労して禅の修業をする必要が有るものか。
その頃には気付きませんでしたが、中国に限らず禅の言葉には解脱体験をしたあとの境地は表現されていますが解脱体験に至る方法や解脱体験の構造は教えてくれません。高校の数学の時間に先生が問題の下に解答に至る式をすらすらと書いてくれたものですが、問題を読んでどうしてこの式が思いつくのかを教えてくれませんでした。回答を知りたいのでは無く回答に至る発想や方法を知りたかったのに教えてくれなかった。禅の言葉には丁度これと同じような歯がゆさを感じるのです。
私は30才の時に良い先生についてヨガの練習を始めまして、それに合わせてヨガについての本も色々と勉強しました。そうしますと、ヨガには解脱体験に至る方法や解脱体験の構造が書かれた経典が有るのです。ヨーガ・スートラは解脱体験に至る方法を教えてくれますしサーンキヤ・カーリカーは解脱体験の構造を教えてくれます。そしてこう言った経典を念頭に置いてヨガの練習をしますと大変効果が有ります。
ヨガはインド思想の根本です。ですからヨガが分かって来ますとサーンキヤ哲学が分かって来ますしヴェーダーンタ思想も、そして仏教も分かって来ます。更にはサーンキヤの発展形で有るタントラも分かるようになりました。そして。
若き日の実存の悩み。私とは何者か?生きる意味とは?私は何処から来て何処へ行くのか?そう言った哲学の探求が進み、今では読みたい本も無くなって来ました。そうしますと空の巣症候群とでも言いましょうか、毎日が空しい。朝起きて3度の食事を摂り買い物がてらに散歩をし、昼間はPCやスマホでニュースを見たりSNSで友人達とのやり取り、夜になってお風呂のあとは夫婦でテレビ。こんな事をしていて良いのか。
最近、玄関を出て陽に当たりながら煙草を吸っていましたら、あの、臨済の言葉が浮かんで来ました。著衣喫飯屙屎送尿(ちゃくいきっぱんあしそうにょう)。やりたい事をやったあとに残るのは身体的な日常生活。やりたい事をやり終えたあとの抜け感がこれだったのか。こんな事で毎日を過ごしていて良いのだろうかと言う自責の念がすっと消えて気持ちが楽になりました。まあしかし、臨済はこんな事を言いたかった訳では無かったのでしょうがね。
しかしこのような抜け感、哲学の探求に限らず人生全般にもこれは言えそうな気がします。
仕事について結婚をし、子育てをして会社をしっかり勤め上げ、振り返って悔いの無いように両親を見送り、そのうえに何を望みましょうか。