ダルシャナ

 人間は過去の記憶と「今」の観察とで出来ています。

 人が環境世界から刺激を受けますと、先ずその「今」を観察します。そして事実を確認しますと次には過去に経験した事の記憶(サムスカーラ)と照らし合わせて意味付けをし、更に自我意識(アハンカーラ)に紐づけをしてそれが自分にとって損か得か、好きか嫌いか等を判断して刺激に対してどう反応するかの決断をしますね。私達の意識は日常にこう言った動きをしています。

 インドでは思想の事をダルシャナと言うようです。しかしダルシャナは日本語で言う思想とは大分違いまして、見かた、見地と言った意味なのだそうです。別の言葉で表現するならば「観」が妥当でしょうね。「思想」は言葉を巡らせますけれども「観」には言葉の入る余地が有りません。

 人が環境世界から刺激を受けた時の「今」の観察、これが「観」、ダルシャナのようでして、経験した事の記憶(サムスカーラ)に照らし合わせる事も無く、また自我意識(アハンカーラ)と紐づけする事も無いので損得も好き嫌いも、また推理もそこには有りません。ただ人間の根源が観照するだけ。

 西洋の哲学は推理哲学ですから言葉と論理を駆使しますが、インドの哲学は観照を旨とします。観照を旨としますから理屈に合わない事も有りますし言葉で表現出来ない事も有る。

 例えば、鈴木大拙に次のような表現が有ります。

 「アブラハムの生まれぬ前から私は居た」とイエス・キリストは言うが、それを如何に証明するか? 答えは、「私が見た」。

 これもダルシャナです。

 インド思想の根本はヨガです。ヨガの練習の末に解脱体験(サマディ)に至り、解脱体験(サマディ)をどう理解しどう表現するかがダルシャナ(観)と言う事なんでしょうね。インド思想は西洋思想よりもずっと深く、探求する価値が有ります。