インドにおける気の概念

 人文書院発行、佐保田鶴治著の「般若心経の真実」と言う本が有ります。1982年の発行ですから37年前、35才の時に初めて読みました。この本は本編の「般若心経の真実」だけでは1冊の本にするには紙数が足りず、本編に加えて6つのお話を掲載して1冊の本として出版されたのだそうですが、私はこの本編を読んで目からウロコが落ちたものです。特に般若心経最後のマントラ、日本語で読めば「ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼじそわか」の解説が素晴らしく、この部分はあれから何度も読み返したものです。そして読み返しはしましたものの、読み返したのはこのマントラの所だけで、本編に続く6つのお話は1度も読み返していませんでした。今回、たまたま「般若心経の真実」の1冊を全部読み返してみたのですが、もちろん本編は素晴らしくて全く色あせていませんでしたが、本編の付録として掲載されているお話の中の「インドにおける気の概念」に驚愕しました。あの頃はまだまだ力不足で、通読はしましたものの、私のお腹に収まっていませんでしたね。ここでの「気」とは「プラーナ」の事なのですが、佐保田鶴治さんはインドの古典の変遷の中でこの「プラーナ」と言う言葉の意味が変化して行く様子を丁寧かつ簡潔に紹介されています。

 それではこの「インドにおける気の概念」から私の気になる所を抜き書きしてみます。インド思想の変遷を辿ります時に、より分かり易いように、抜き書きの前には見出しとして、その思想を象徴する用語を(かっこ)内に書き加えておきます。

 (ウパニシャッド)

 プラーナの場合は、この最初の頃の観念とその展開の道筋がウパニシャッドのなかに非常に明瞭に現れている。~第一にプラーナは吸気の器官として、他のアパーナ(呼気の器官)やヴィアーナ(発語器官)と対立的に取り扱われる。第二にはプラーナは鼻を拠点として働く器官として、他の眼、耳、意(精神)等の器官に対立する。

 ここでは、プラーナは生命のエネルギーそのものを意味するには至っていないけれども、やがてそこに至る途中の思想段階が示されている。

 生命の根源としてのプラーナは終には、意識そのものと同一視され、さらに進展して人間の主体的存在と見られるようになる。ウパニシャッド思想はプラーナを以て後に宇宙意識或いは宇宙主宰神と見る哲学的立場にまで発展するのである。

 ウパニシャッド時代には、上述の如く、プラーナに関するいろいろな思想が開発されたが、その後の学派時代になると、大体において、プラーナは五つのエネルギーの一つと見なされる。五つを総称する時にはヴァーユ(風)ということばを使用する。風という意味のヴァーユ(またはヴァータ)を使ったのは、呼吸が風(空気)と関係することに注目したからであろうが、インドの思想では、むしろ風の動き易い特徴に眼をつけていたのである。生命のエネルギーは実際動き止まないところにその本質的特質がある。
 
 (サーンキア)

 サーンキア(仏教では数論という)哲学の根本教典(サーンキア・カーリカー)では、プラーナを初めとする五種のヴァーユ(風、生命のエネルギー)は十三の心理器官(作具)に共通した働き(ヴリッティ)ということになっている。

 五つのヴァーユは器官から生起するもので、器官から独立して存在するものではない。~サーンキア哲学では、独立存在(タットヴァ、諦)はプルシャ(真我)、プラクリティ(自性)以下二十五しか認めないから、五つのヴァーユは器官の働きとしてしか考えられないのである。

 五つのヴァーユというのは⑴プラーナ、⑵アパーナ、⑶ウダーナ、⑷サマーナ、⑸ヴィアーナである。この五者はからだのなかで働く場所が違い、その働きが心理器官の上に現す様相も違っている。その一つであるプラーナは口と鼻とをその所在とし、外部の環境に関係する働きを有する。ここではプラーナはプラーナナ(前進)と同義語と見られる。

 (ヨーガ・スートラ)

 スートラのなかには、上述の五つの気(ヴァーユ)のなかのウダーナ気とサマーナ気があげられ、それらが超能力と結びつけられているから、スートラの作者は五気を知っていたに相違ないと推測される。

 ヨーガ・スートラ以降のヨーガ派では、プラーナは鼻から出入する気息そのものではなくて、呼吸をつかさどる生命のエネルギーであるとする見解が一般的であったと見るべきである。

 (サーンキアとヨーガ)

 しかし、ハタ・ヨーガの経典では五気の総称としては、ヴァーユまたはヴァータ(風)という文字を使っていて、プラーナという文字を使ってはいない。プラーナはやはり、五気または十気のうちの一つとして取り扱われているのである。この点で、サーンキア哲学もヨーガも一致するので中国の気に相当するのはプラーナではなくヴァーユまたはヴァータであるとしなければならない。

 気をプラーナに当てるとすれば、プラーナは五つのヴァーユの一つであると同時にヴァーユ全体の根源であり、従って総称である。五つのヴァーユは同一のプラーナの五つの形態である、ということになる。

 五つのヴァーユ(気)はその身体内での活動範囲とその職能を異にしている。一般には次の如く考えられている。⑴プラーナは鼻頭から心臓までの間にとどまり、気息を運ぶ働きをする。⑵サマーナは心臓からヘソまでの間にとどまり、食べたものを消化して平等に配達する働きをする。⑶アパーナはヘソから足の裏までの間にとどまり、身体の汚れをとり去る働きをする。⑷ウダーナは鼻頭から頭までの間にとどまり、上昇の働きをする。⑸ヴィアーナは全身にゆきわた って働く。ハタ・ヨーガでは、この上にさらに五種のヴァーユを加える。⑴ナーガ(蛇)、⑵クールマ(亀)、⑶クリカラ(しゃこ)、⑷デーヴァダッタ(天与)、⑸ダナンジャヤ(火)などの名を持ったヴァーユはそれぞれにその定位置と固有の働きを持っている。

 ヨーガの行法体系の中でプラーナはプラーナーヤーマと関連して、非常に重大な意味を帯びる。プラーナーヤーマはプラーナのアーヤーマ(停止)ということでクンバカというのと同じ操作である。

 (ハタ・ヨーガ)

 しかし、肉体的・生理的な操作を中心とするハタ・ヨーガにあってはプラーナーヤーマはこれとは違った意味を与えられる。それは、プラーナーヤーマによってプラーナ気を下へ押し下げ、下の方からはアパーナ気を引き上げて、両者を結合させることによって、クンダリニーという神的な力を目覚めさせる。そうするとその力は今まで眠っていた脊柱の底部から火の柱となり背骨の中心のスシュムナーという気道のなかを頭部の聖なる場所(ブラハマ・ランドラ)へ向かって上昇する。そうするとプラーナはそのスシュムナーのなかへ流れ込んで、ここに三昧の状態が実現する。このような意味がプラーナーヤーマに附けられるのである。

 如何でしたか?佐保田鶴治さんは僅か12頁のお話の中でプラーナと言う言葉の意味の変遷を、ウパニシャッドからサーンキヤ哲学へ、そしてヨーガ・スートラからハタ・ヨーガへとインド思想の歴史を辿っておられまして、見事!と言うより他に有りませんね。