ギーターとブラフマン
東方出版発行、真下尊吉著の「ギーターとブラフマン」を読んで見ました。真下尊吉さんは私より9つ年上の方ですので現在81才から82才、80才を過ぎてこのような専門的な内容の新刊を発表されるのは驚きですし、振り返って私は「ボーっと生きてんじゃねーよ!」とチコちゃんに叱られそうです。
「ギーターとブラフマン」では主にバガヴァッド・ギーターを解説して有るのですが、「まえがき」に結論を示し本編ではサンスクリット原本を翻訳して見せながら「まえがき」での結論を証明すると言う体裁になっているようです。
それでは「まえがき」に有る結論とは何か。マドレーヌ・ビアルドー(フランス人?)の言葉として紹介されている次の2つだと私は思います。
1、私が提唱する仮説は、マハーバーラタとは、まさに、仏教を広めたアショーカ王の勢力に対する、バラモン教の逆襲だった。
2、ヨーガへの究極の目標を、(サーンキヤのように)プルシャとの合一とする場合と(ヴェーダーンタのように)ブラフマンとの合一とする2つがあり、名前に好みはあるが、両者に違いはない。
2、については私も全く同感です。そして1、については、それはそうなんだろうけれども言葉を少し変えて、仏教から衝撃を受けたバラモン教が仏教の思想を取り込みながらヒンドゥー教へと変質した、そしてこうしたクシャトリアの思想をバラモンが取り込み、クシャトリアもそれに応じたのだろうと考えます。その中にバガヴァッド・ギーターを内包するマハーバーラタはクシャトリアの世界ですし、それをバラモンが我が物として承認して権威付け、そしてそれが仏教への対抗思想としてヒンドゥー教へと変質したのでしょう。
それでは「まえがき」に有る結論を証明する本編の中から私が興味を持った部分を抜き書きして見ます。抜き書きの後ろには抜き書きしたこの本の頁を表記し、そして(頁)の後の(カッコ)内には私の感想を書いてみます。
ヴェーダ、ウパニシャッドを根源とするインドのダルシャナは、サーンキヤからスタートする。ヴェーダーンタの「ブラフマスートラ」では、サーンキヤを批判したが、ここ「ギーター」では、プラクリティの構成要素であるグナの働きを容認していることが分かる。(71頁)(バガヴァッド・ギーターがヴェーダーンタの一元論とサーンキヤの二元論を統合しようとしているのが分かります)。
奉献の行為は、火の神、アグニに対して火中に投じる儀式として古来から行われてきたが、従来は、アーリヤであるドゥヴィジャのバラモン(司祭)が、その専門知識を持ち儀式も取り行ってきた。しかし、「ギーター」では、大きな変化が見られ、次の詩句に出てくるように、リスペクト(崇敬)の気持ちを持って私たち自らがそれを行うのである。一人一人がヨーガの状態に向かう。・・・従って、ヤギャというよりも、むしろ、プラニダーナというサンスクリット語の意味の方が近い。崇敬と感謝の気持ちが何よりも大切なのである。(88頁)(形骸化したバラモンの儀式から、哲学を深めるクシャトリアへの傾斜がバガヴァッド・ギーターには見られます)。
次に、ヴェーダーンタ・ダルシャナでは、ブラフマンは創造主であり、支配者でもあるが、ここギーターでは、プルシャに相当するものをチェータナとして説明している。つまり、1つのパラー・ブラフマンを、サーンキヤ同様、プルシャとプラクリティの2つの相(アスペクト)の様に説明している。プラクリティに相当するエネルギーは、マーヤー、または、シャクティと同じである。なお、14章では、このシャクティのことをマハット・ブラフマン(種を宿した子宮)と呼び、サーンキヤ寄りの説明をしている。(109頁)(バガヴァッド・ギーターにこんな事が書いて有るとは私も知りませんでした)。
ヨーガマーヤーとは、女性名詞で、マジックの意味である。ここでは、ブラフマンの創造的な強力なパワーのことで、ものごとを覆い隠し、実在しないものを実在しているように見せかけたりする。・・・サーンキヤ・ダルシャナでは、プラクリティの展開として説明されたこのブラフマンの創造的エネルギーは、ヴェーダーンタ・ダルシャナではマーヤーとして表現されている。(116頁)(実在するプラクリティか、実在しないマーヤー=幻か、それが問題です)。
さらに、その生命の原理がジーヴァートマと呼ばれ、この微細な身体は、純粋知性、アハンカーラ、そして5つのプラーナより構成され、身体を維持・活性化させ、同時に感覚器官と行動器官、心が生命活動に関わる。これがカルマ(行動)として顕れる。(118頁)(これはサーンキヤの説明ですが、ウパニシャッドに度々登場する五風が出て来て嬉しくなります)。
朝、目が覚めれば、まず、私が顕れ、その後に、この世界が顕れる。夜になれば、すべてがすっかり姿を消す。ラマナ・マハルシが簡潔に述べた通りである。創造とは、何か新たにものが創り出されることではなく、すでに存在する不滅で不変の、1つの根源が名前とともに姿・形を顕すことである。従って、必ず元に戻る。(121頁)(ここはとても大事で、有の哲学の面目躍如です)。
サーンキヤ・ダルシャナでは、プルシャの一瞥があるとエネルギーの源、プラクリティの展開が始まる。ここでは、サーンキヤカーリカーでムーラプラクリティと表現したことをマハット・ブラフマ、即ち、種を宿した子宮として表現し、ここから展開・創造が始まる説明となっている。ヴェーダーンタ・ダルシャナでは、ブラフマン1つなので、創造におけるエネルギーをマハット・ブラフマと表現したことに特に注意してほしい。このことは、明らかに「ブラフマ・スートラ」で批判されたサーンキヤ・ダルシャナのプラクリティのことを受け入れ、ブラフマンのエネルギーのアスペクトを表現を変えてマハット・ブラフマとしている。(156頁)(サーンキヤとヴェーダーンタの合一の為にはこんな苦労が有ったのですね)。
以上、膨大な解説の中から少しだけ抜き出してみましたので、この本を読まれる際の参考にしていただければ幸いです。
さて、2010年1月8日に私はこのブログに「バガヴァッド・ギーターの哲学」をUPしました。バガヴァッド・ギーターの哲学と言えば一般的にはカルマ・ヨガとバクティ・ヨガになるのでしょうが私はここの所をスルーして、バガヴァッド・ギーターはヴェーダーンタの一元論とサーンキヤの二元論の合一を主張しているのだと書きました。そして今回この「ギーターとブラフマン」を読みまして、それが間違いでは無かったのだと大いに安心しました。
そして更に
サーンキヤと仏教はタントラ化したのにヴェーダーンタがタントラ化しなかった訳も分かるような気がします。タントラはサーンキヤ哲学のプルシャ(精神原理、真我)をシヴァ神に、そしてプラクリティ(物質原理、世界の展開)をシヴァ神の妃のパールヴァティー女神に見立てたイマジネーションの世界ですからサーンキヤがタントラ化したのは間違いの無い所です。
それでは仏教はどうでしょうか。仏教では霊魂や真我を認めませんからサーンキヤ哲学のプルシャ(精神原理、真我)は出て来ません。しかしプラクリティ(物質原理、世界の展開)についてはかなり詳細に検討していまして、般若心経ではプラクリティを「空」として退けますが理趣経では「宇宙の摂理」そのもので有るとして完全に肯定しています。ですから心と体と環境世界(プラクリティ)をイマジネーションとして膨らませるタントラに、仏教は変化出来たのでしょう。ヒンドゥー教のタントラでのクンダリニー(プラクリティ、シャクティ)は仏教ではプラジュニャーパーラミター(般若波羅蜜多)女神として登場しますね。
ヴェーダーンタはどうでしょうか。ヴェーダーンタは宇宙の真実をブラフマン(梵)であるとし、それが個人に内在する時にはアートマン(真我)と呼びます。しかし、環境世界についてはそれをマーヤー(幻)であるとして退けますので、心と体と環境世界(プラクリティ)については関心が有りません。そうしますと身体を重視するタントラに変化するのは、これは難しいですね。ですからヴェーダーンタを除き、サーンキヤと仏教とは意外な所で同じ方向を向いてタントラ化が出来たのでしょう。これは面白い発見でした。
東方出版発行、真下尊吉著の「ギーターとブラフマン」を読んで見ました。真下尊吉さんは私より9つ年上の方ですので現在81才から82才、80才を過ぎてこのような専門的な内容の新刊を発表されるのは驚きですし、振り返って私は「ボーっと生きてんじゃねーよ!」とチコちゃんに叱られそうです。
「ギーターとブラフマン」では主にバガヴァッド・ギーターを解説して有るのですが、「まえがき」に結論を示し本編ではサンスクリット原本を翻訳して見せながら「まえがき」での結論を証明すると言う体裁になっているようです。
それでは「まえがき」に有る結論とは何か。マドレーヌ・ビアルドー(フランス人?)の言葉として紹介されている次の2つだと私は思います。
1、私が提唱する仮説は、マハーバーラタとは、まさに、仏教を広めたアショーカ王の勢力に対する、バラモン教の逆襲だった。
2、ヨーガへの究極の目標を、(サーンキヤのように)プルシャとの合一とする場合と(ヴェーダーンタのように)ブラフマンとの合一とする2つがあり、名前に好みはあるが、両者に違いはない。
2、については私も全く同感です。そして1、については、それはそうなんだろうけれども言葉を少し変えて、仏教から衝撃を受けたバラモン教が仏教の思想を取り込みながらヒンドゥー教へと変質した、そしてこうしたクシャトリアの思想をバラモンが取り込み、クシャトリアもそれに応じたのだろうと考えます。その中にバガヴァッド・ギーターを内包するマハーバーラタはクシャトリアの世界ですし、それをバラモンが我が物として承認して権威付け、そしてそれが仏教への対抗思想としてヒンドゥー教へと変質したのでしょう。
それでは「まえがき」に有る結論を証明する本編の中から私が興味を持った部分を抜き書きして見ます。抜き書きの後ろには抜き書きしたこの本の頁を表記し、そして(頁)の後の(カッコ)内には私の感想を書いてみます。
ヴェーダ、ウパニシャッドを根源とするインドのダルシャナは、サーンキヤからスタートする。ヴェーダーンタの「ブラフマスートラ」では、サーンキヤを批判したが、ここ「ギーター」では、プラクリティの構成要素であるグナの働きを容認していることが分かる。(71頁)(バガヴァッド・ギーターがヴェーダーンタの一元論とサーンキヤの二元論を統合しようとしているのが分かります)。
奉献の行為は、火の神、アグニに対して火中に投じる儀式として古来から行われてきたが、従来は、アーリヤであるドゥヴィジャのバラモン(司祭)が、その専門知識を持ち儀式も取り行ってきた。しかし、「ギーター」では、大きな変化が見られ、次の詩句に出てくるように、リスペクト(崇敬)の気持ちを持って私たち自らがそれを行うのである。一人一人がヨーガの状態に向かう。・・・従って、ヤギャというよりも、むしろ、プラニダーナというサンスクリット語の意味の方が近い。崇敬と感謝の気持ちが何よりも大切なのである。(88頁)(形骸化したバラモンの儀式から、哲学を深めるクシャトリアへの傾斜がバガヴァッド・ギーターには見られます)。
次に、ヴェーダーンタ・ダルシャナでは、ブラフマンは創造主であり、支配者でもあるが、ここギーターでは、プルシャに相当するものをチェータナとして説明している。つまり、1つのパラー・ブラフマンを、サーンキヤ同様、プルシャとプラクリティの2つの相(アスペクト)の様に説明している。プラクリティに相当するエネルギーは、マーヤー、または、シャクティと同じである。なお、14章では、このシャクティのことをマハット・ブラフマン(種を宿した子宮)と呼び、サーンキヤ寄りの説明をしている。(109頁)(バガヴァッド・ギーターにこんな事が書いて有るとは私も知りませんでした)。
ヨーガマーヤーとは、女性名詞で、マジックの意味である。ここでは、ブラフマンの創造的な強力なパワーのことで、ものごとを覆い隠し、実在しないものを実在しているように見せかけたりする。・・・サーンキヤ・ダルシャナでは、プラクリティの展開として説明されたこのブラフマンの創造的エネルギーは、ヴェーダーンタ・ダルシャナではマーヤーとして表現されている。(116頁)(実在するプラクリティか、実在しないマーヤー=幻か、それが問題です)。
さらに、その生命の原理がジーヴァートマと呼ばれ、この微細な身体は、純粋知性、アハンカーラ、そして5つのプラーナより構成され、身体を維持・活性化させ、同時に感覚器官と行動器官、心が生命活動に関わる。これがカルマ(行動)として顕れる。(118頁)(これはサーンキヤの説明ですが、ウパニシャッドに度々登場する五風が出て来て嬉しくなります)。
朝、目が覚めれば、まず、私が顕れ、その後に、この世界が顕れる。夜になれば、すべてがすっかり姿を消す。ラマナ・マハルシが簡潔に述べた通りである。創造とは、何か新たにものが創り出されることではなく、すでに存在する不滅で不変の、1つの根源が名前とともに姿・形を顕すことである。従って、必ず元に戻る。(121頁)(ここはとても大事で、有の哲学の面目躍如です)。
サーンキヤ・ダルシャナでは、プルシャの一瞥があるとエネルギーの源、プラクリティの展開が始まる。ここでは、サーンキヤカーリカーでムーラプラクリティと表現したことをマハット・ブラフマ、即ち、種を宿した子宮として表現し、ここから展開・創造が始まる説明となっている。ヴェーダーンタ・ダルシャナでは、ブラフマン1つなので、創造におけるエネルギーをマハット・ブラフマと表現したことに特に注意してほしい。このことは、明らかに「ブラフマ・スートラ」で批判されたサーンキヤ・ダルシャナのプラクリティのことを受け入れ、ブラフマンのエネルギーのアスペクトを表現を変えてマハット・ブラフマとしている。(156頁)(サーンキヤとヴェーダーンタの合一の為にはこんな苦労が有ったのですね)。
以上、膨大な解説の中から少しだけ抜き出してみましたので、この本を読まれる際の参考にしていただければ幸いです。
さて、2010年1月8日に私はこのブログに「バガヴァッド・ギーターの哲学」をUPしました。バガヴァッド・ギーターの哲学と言えば一般的にはカルマ・ヨガとバクティ・ヨガになるのでしょうが私はここの所をスルーして、バガヴァッド・ギーターはヴェーダーンタの一元論とサーンキヤの二元論の合一を主張しているのだと書きました。そして今回この「ギーターとブラフマン」を読みまして、それが間違いでは無かったのだと大いに安心しました。
そして更に
サーンキヤと仏教はタントラ化したのにヴェーダーンタがタントラ化しなかった訳も分かるような気がします。タントラはサーンキヤ哲学のプルシャ(精神原理、真我)をシヴァ神に、そしてプラクリティ(物質原理、世界の展開)をシヴァ神の妃のパールヴァティー女神に見立てたイマジネーションの世界ですからサーンキヤがタントラ化したのは間違いの無い所です。
それでは仏教はどうでしょうか。仏教では霊魂や真我を認めませんからサーンキヤ哲学のプルシャ(精神原理、真我)は出て来ません。しかしプラクリティ(物質原理、世界の展開)についてはかなり詳細に検討していまして、般若心経ではプラクリティを「空」として退けますが理趣経では「宇宙の摂理」そのもので有るとして完全に肯定しています。ですから心と体と環境世界(プラクリティ)をイマジネーションとして膨らませるタントラに、仏教は変化出来たのでしょう。ヒンドゥー教のタントラでのクンダリニー(プラクリティ、シャクティ)は仏教ではプラジュニャーパーラミター(般若波羅蜜多)女神として登場しますね。
ヴェーダーンタはどうでしょうか。ヴェーダーンタは宇宙の真実をブラフマン(梵)であるとし、それが個人に内在する時にはアートマン(真我)と呼びます。しかし、環境世界についてはそれをマーヤー(幻)であるとして退けますので、心と体と環境世界(プラクリティ)については関心が有りません。そうしますと身体を重視するタントラに変化するのは、これは難しいですね。ですからヴェーダーンタを除き、サーンキヤと仏教とは意外な所で同じ方向を向いてタントラ化が出来たのでしょう。これは面白い発見でした。