望郷の旅
母が7月に97才で亡くなり9月には御殿場の冨士霊園に納骨しました。そうしますとこれまでのように母を見舞ったり家を片付けたりとの熊本へ帰る用も無くなりました。用は無くなりましたが熊本は私の故郷、故郷への郷愁は募ります。そこで3泊4日で熊本へ行って来ました。今回は思い出の地の写真を沢山撮って持ち帰ります。
熊本市街には白川と言う一級河川が流れていますが既に売却処分した私の旧実家は白川に掛かる安巳橋(あんせいばし)から手前2軒目に有ります。安巳橋は昔は木製の心細い橋でしたが私が小学1年生の年の白川水害の時に中央から真っ二つに折れて流れてしまいまして、現在は鉄橋になっています。安巳橋からひとつ上流に掛かる大甲橋(たいこうばし)は路面電車が走る大きな橋ですが、大甲橋を渡ってすぐ左に私が通ったみどり幼稚園は有りました。レイコ先生の紺色のスカートと赤くて細いビニール製のベルトが私の記憶にしっかりと残っています。みどり幼稚園の有った所は現在白川小学校になっているようです。
旅?の2日目は小、中、高と私が通った学校のあたりを歩いて見ました。熊本市街の中央は通町筋(とおりちょうすじ)と言いまして、通町筋から上通り(かみとおり)商店街を通り抜けアーケードの切れたあたりから小路を左に入り、小路を出て坪井川(つぼいがわ、昔は本当に汚い川でした)を渡ると右手に城東小学校は有ります。築60年にもなりましょうか現在は鉄筋コンクリートの校舎になっていますが昔は木造の校舎で、小学5年生の冬休みに放火に遭い全焼、それから建て替えましたのでこの校舎が出来上がる前に私は中学校に上がりました。
城東小学校の左に隣接して藤園(とうえん)中学校は有ります。本当に昔のままで、当時の放送部のマドンナTYやFYの声が今にも聞こえて来そうです。城東校と藤園中学の前には用水路が有り、昔は用水路の上にバラック小屋がびっしりと並んでいたものです。城東小学校の近くには夏目漱石の旧居が有りますのでそこまで足を延ばして見ましたら熊本地震で損壊していて今も拝観休止になっていました。
さて、熊本の中心部の通町筋(とおりちょうすじ)には大劇と言うパチンコ屋さんが有りますが昔は大きな映画館でした。その頃私は大劇で「リオ・ブラボー」や「アラモ」や「史上最大の作戦」を観ました。大劇から左へ下通り(しもとおり)商店街への入り口を超えてパルコの左には熊本で1番の鶴屋百貨店が有ります。熊本には客船の接岸出来る港が無いので中国からの観光客は八代の港に接岸し、九州縦貫道をバスで1時間走って熊本へやって来て鶴屋で化粧品等の買い物をしているそうです。私が子供の頃に家族で鶴屋の食堂でお昼を食べようとしていましたら窓の外の鶴屋の看板から火花が出て燃え始め、火事になりそうだったのでお客さん達が一斉に避難したのを憶えています。熊本で1番の下通り商店街に入りますと昔の太洋デパートの跡地が有ります。私が結婚した26才の年に太洋デパートは火事を起こし大勢の死者を出しました。それからはダイエーが入っていましたが昨年立て替えまして今はCOCOSAと言うファッションビルに変わっています。
熊本高校へはチャリ通だったからでしょうか、道に迷ってしまいました。やっと正門前に着きますと校舎は熊本地震で損壊しておりシートが掛かっています。校舎の左隣、運動場の右側にはプレハブの校舎が建ててあり、そこで授業をしているようです。
熊本高校の近くには水前寺公園が有りますので高校の卒業写真は水前寺公園で撮りました。私が小学生の頃水前寺公園で、金魚を透明なプラスティックに閉じこめて固めた小さな置物を伯母が買ってくれました。「これは水晶ですけんね」とお店のおばさんが嘘を言ったのを憶えています。
旅?の3日目には観光タクシーを頼んで本妙寺と田原坂(たばるざか)へ行きました。本妙寺も田原坂も私はこれまで1度しか行った事が有りません。本妙寺は山の麓(ふもと)に有り、山の頂上には浄池廟と言う加藤清正のお墓が有ります。浄池廟から本妙寺へ下る坂道は両側が石段になっていて真ん中には沢山の石灯篭がずらっと連なっています。普通なら真ん中に石段が有ってその両側を何かで飾るでしょうからこれは不思議な構造ですね。そして多くの石灯篭が熊本地震の為に無残に倒れていました。山を下って本妙寺から浄池廟を見上げますと狛犬のようなものが向かい合っていました。加藤清正の虎退治は有名ですから、これは狛犬では無く狛虎なのだそうです。
小学校の頃、父が本妙寺に虫取りに連れて行ってくれました。私が虫取りに夢中になっていますと突然私の前にハンセン氏病のおじさんが現れました。おじさんの鼻の穴は2つでは無くひとつの大きな穴が開いていました。小学生の私はただ驚き恐れたのですがあとで父に話しますと、加藤清正はハンセン氏病患者を手厚く保護したので今でもハンセン氏病の人が本妙寺にお参りに来るのだと説明してくれました。しかし、あの思い出は強烈でした。
本妙寺の次には田原坂(たばるざか)へ行きました。田原坂は西南戦争の激戦地です。
田原坂へは高校の時に学校で見学に行きました。現場にはプレハブの粗末な建物が有ってその中に少しばかりの展示物が並んでいたのを憶えています。今回行って見ますとそれは立派な資料館が建っていました。入り口を入ると大砲が、そしてその先のガラスケースにはスペンサー銃、スナイドル銃、エンフィールド銃等が並んでいます。アメリカで南北戦争の終わったのが1865年、そして西南戦争が1877年(明治10年)ですから多種多様な銃器が日本に入っていたのですね。各種の鉄砲の先にはスナイドル銃の銃弾が多数陳列されています。しかし、はてな?
高校時代に田原坂を見学した時には飴玉を入れるようなガラス瓶の中に「空中衝突弾」と言うのがいくつか展示されていて戦争の壮絶さを物語っていたのですが、この立派な資料館に「空中衝突弾」が見当たりません。資料館の人に聞いて見ますと「空中衝突弾」は現在鹿児島に貸し出しているのだと説明してくれました。鹿児島で「西郷どん」の展示会でもやっているのでしょうか。「済みませんね」と言って資料館の人が「空中衝突弾」のカラー写真をパウチしたものを見せてくれますので、それを写真に撮りました。
実際の田原坂を見たいと言いますと運転手さんは車を移動させてくれました。しばらく走って「田原坂はどのあたりですか?」と聞きますと「今走っているのが田原坂ですよ」と教えてくれます。そこは車がすれ違えない程の林道のような道で、それが2㎞程続いています。政府軍が田原坂を北から南へ登って来るところを薩摩軍が道の両側から銃を撃ちかけたのだそうです。32万発の銃弾が飛び交ったと言いますから凄惨な戦場だったようです。
この日の夜には友人UKと会って居酒屋やミニクラブで楽しいひと時を過ごしました。そしてお店を出てホテルに戻るのに僅か10分、これが地方都市の良いところです。
そのうちまた熊本へ行きたいなあ、でも行く用事が出来ますでしょうか。
母が7月に97才で亡くなり9月には御殿場の冨士霊園に納骨しました。そうしますとこれまでのように母を見舞ったり家を片付けたりとの熊本へ帰る用も無くなりました。用は無くなりましたが熊本は私の故郷、故郷への郷愁は募ります。そこで3泊4日で熊本へ行って来ました。今回は思い出の地の写真を沢山撮って持ち帰ります。
熊本市街には白川と言う一級河川が流れていますが既に売却処分した私の旧実家は白川に掛かる安巳橋(あんせいばし)から手前2軒目に有ります。安巳橋は昔は木製の心細い橋でしたが私が小学1年生の年の白川水害の時に中央から真っ二つに折れて流れてしまいまして、現在は鉄橋になっています。安巳橋からひとつ上流に掛かる大甲橋(たいこうばし)は路面電車が走る大きな橋ですが、大甲橋を渡ってすぐ左に私が通ったみどり幼稚園は有りました。レイコ先生の紺色のスカートと赤くて細いビニール製のベルトが私の記憶にしっかりと残っています。みどり幼稚園の有った所は現在白川小学校になっているようです。
旅?の2日目は小、中、高と私が通った学校のあたりを歩いて見ました。熊本市街の中央は通町筋(とおりちょうすじ)と言いまして、通町筋から上通り(かみとおり)商店街を通り抜けアーケードの切れたあたりから小路を左に入り、小路を出て坪井川(つぼいがわ、昔は本当に汚い川でした)を渡ると右手に城東小学校は有ります。築60年にもなりましょうか現在は鉄筋コンクリートの校舎になっていますが昔は木造の校舎で、小学5年生の冬休みに放火に遭い全焼、それから建て替えましたのでこの校舎が出来上がる前に私は中学校に上がりました。
城東小学校の左に隣接して藤園(とうえん)中学校は有ります。本当に昔のままで、当時の放送部のマドンナTYやFYの声が今にも聞こえて来そうです。城東校と藤園中学の前には用水路が有り、昔は用水路の上にバラック小屋がびっしりと並んでいたものです。城東小学校の近くには夏目漱石の旧居が有りますのでそこまで足を延ばして見ましたら熊本地震で損壊していて今も拝観休止になっていました。
さて、熊本の中心部の通町筋(とおりちょうすじ)には大劇と言うパチンコ屋さんが有りますが昔は大きな映画館でした。その頃私は大劇で「リオ・ブラボー」や「アラモ」や「史上最大の作戦」を観ました。大劇から左へ下通り(しもとおり)商店街への入り口を超えてパルコの左には熊本で1番の鶴屋百貨店が有ります。熊本には客船の接岸出来る港が無いので中国からの観光客は八代の港に接岸し、九州縦貫道をバスで1時間走って熊本へやって来て鶴屋で化粧品等の買い物をしているそうです。私が子供の頃に家族で鶴屋の食堂でお昼を食べようとしていましたら窓の外の鶴屋の看板から火花が出て燃え始め、火事になりそうだったのでお客さん達が一斉に避難したのを憶えています。熊本で1番の下通り商店街に入りますと昔の太洋デパートの跡地が有ります。私が結婚した26才の年に太洋デパートは火事を起こし大勢の死者を出しました。それからはダイエーが入っていましたが昨年立て替えまして今はCOCOSAと言うファッションビルに変わっています。
熊本高校へはチャリ通だったからでしょうか、道に迷ってしまいました。やっと正門前に着きますと校舎は熊本地震で損壊しておりシートが掛かっています。校舎の左隣、運動場の右側にはプレハブの校舎が建ててあり、そこで授業をしているようです。
熊本高校の近くには水前寺公園が有りますので高校の卒業写真は水前寺公園で撮りました。私が小学生の頃水前寺公園で、金魚を透明なプラスティックに閉じこめて固めた小さな置物を伯母が買ってくれました。「これは水晶ですけんね」とお店のおばさんが嘘を言ったのを憶えています。
旅?の3日目には観光タクシーを頼んで本妙寺と田原坂(たばるざか)へ行きました。本妙寺も田原坂も私はこれまで1度しか行った事が有りません。本妙寺は山の麓(ふもと)に有り、山の頂上には浄池廟と言う加藤清正のお墓が有ります。浄池廟から本妙寺へ下る坂道は両側が石段になっていて真ん中には沢山の石灯篭がずらっと連なっています。普通なら真ん中に石段が有ってその両側を何かで飾るでしょうからこれは不思議な構造ですね。そして多くの石灯篭が熊本地震の為に無残に倒れていました。山を下って本妙寺から浄池廟を見上げますと狛犬のようなものが向かい合っていました。加藤清正の虎退治は有名ですから、これは狛犬では無く狛虎なのだそうです。
小学校の頃、父が本妙寺に虫取りに連れて行ってくれました。私が虫取りに夢中になっていますと突然私の前にハンセン氏病のおじさんが現れました。おじさんの鼻の穴は2つでは無くひとつの大きな穴が開いていました。小学生の私はただ驚き恐れたのですがあとで父に話しますと、加藤清正はハンセン氏病患者を手厚く保護したので今でもハンセン氏病の人が本妙寺にお参りに来るのだと説明してくれました。しかし、あの思い出は強烈でした。
本妙寺の次には田原坂(たばるざか)へ行きました。田原坂は西南戦争の激戦地です。
田原坂へは高校の時に学校で見学に行きました。現場にはプレハブの粗末な建物が有ってその中に少しばかりの展示物が並んでいたのを憶えています。今回行って見ますとそれは立派な資料館が建っていました。入り口を入ると大砲が、そしてその先のガラスケースにはスペンサー銃、スナイドル銃、エンフィールド銃等が並んでいます。アメリカで南北戦争の終わったのが1865年、そして西南戦争が1877年(明治10年)ですから多種多様な銃器が日本に入っていたのですね。各種の鉄砲の先にはスナイドル銃の銃弾が多数陳列されています。しかし、はてな?
高校時代に田原坂を見学した時には飴玉を入れるようなガラス瓶の中に「空中衝突弾」と言うのがいくつか展示されていて戦争の壮絶さを物語っていたのですが、この立派な資料館に「空中衝突弾」が見当たりません。資料館の人に聞いて見ますと「空中衝突弾」は現在鹿児島に貸し出しているのだと説明してくれました。鹿児島で「西郷どん」の展示会でもやっているのでしょうか。「済みませんね」と言って資料館の人が「空中衝突弾」のカラー写真をパウチしたものを見せてくれますので、それを写真に撮りました。
実際の田原坂を見たいと言いますと運転手さんは車を移動させてくれました。しばらく走って「田原坂はどのあたりですか?」と聞きますと「今走っているのが田原坂ですよ」と教えてくれます。そこは車がすれ違えない程の林道のような道で、それが2㎞程続いています。政府軍が田原坂を北から南へ登って来るところを薩摩軍が道の両側から銃を撃ちかけたのだそうです。32万発の銃弾が飛び交ったと言いますから凄惨な戦場だったようです。
この日の夜には友人UKと会って居酒屋やミニクラブで楽しいひと時を過ごしました。そしてお店を出てホテルに戻るのに僅か10分、これが地方都市の良いところです。
そのうちまた熊本へ行きたいなあ、でも行く用事が出来ますでしょうか。