お葬式

 母が亡くなりました。97年の生涯でした。

 母の生涯

 大正10年4月23日、母は熊本県菊池郡隈府町で隈田辰平・小夜の末娘として生まれました。中学校から熊本市内の尚絅校(しょうけいこう)の寄宿舎に入りましたので随分と淋しい思いをしたようです。学校での成績は良かったようで、お嬢さんを是非大学へ進学させて下さいと先生が実家の父親を訪ねてお願いしてくれたそうです。母は東京の日本女子大に進み、卒業後は大学の先生のお手伝いをしようと思っていたそうですが戦争はひどくなる一方、東京は危険だと言うので実家に呼び戻され、そして程なく父と結婚しました。

 父は戦争には行かず大牟田の軍事工場で事務の仕事をしていましたが、ある時工場の人達が「兵隊さん達は丸坊主で戦っているのだから自分達も頭を丸坊主にしよう」と言い出したそうです。頭を丸坊主にして戦争に勝てるのなら世話は無いと父が七三分けを続けていました所、ある日の退社時に突然数本の木材が父に向って押し倒されて来たそうです。

 私の姉の聞いた話は違っていて、工場に不正を働く人達が居て父がそれを注意したところ逆にひどい暴力を受け、血だらけになって帰宅して来たのだと言います。まあ、どちらも有った事だったのでしょうが、母は父にそんな会社は辞めて下さいとお願いしたそうです。

 戦争が終わり、夫婦は話し合って料理学校を開く事にしました。母が料理の先生で父は事務方です。激しい戦時中に家庭では娘に料理を教える事も出来なかったのですから夫婦の料理学校は大変繁盛しました。大変繁盛しましたので教室は朝の部、昼の部、そして夜は夜で2部制と、1日で4回も教室は続きました。料理学校の評判が良いので母はそのうちRKKテレビ熊本で料理番組も持つようになりました。母がそんなに働きましたので、母は私達3人の子供達を東京の大学に行かせてくれました。あの時代に女性が働いて3人の子供達を大学に行かせてくれたのですから、これは凄い事です。

 60才あたりから仕事を減らした母は70才で完全にリタイアしましたが、程なく父の介護生活が始まり、父は平成10年に84才で亡くなりました。母はそれからしばらくは独り暮らしをしていましたが、4年前には高齢者施設に入居する決断をしました。そして更にその翌年には、家を空き家にしていて浮浪者が住み着いたり、また火事を出してご近所に迷惑を掛けてはいけないと家の処分も決断してくれました。普通なら何時(いつ)でも帰れるように家は残しておいて欲しいと言うのでしょうが、これも立派な決断でした。

 お葬式

 10年前に私は母からお葬式についての希望を聞き、それを姉や弟にも連絡しました。母の希望は「家族葬にして欲しい」と「お坊さんは頼むな」でした。「家族葬にして欲しい」は分かるのですが「お坊さんは頼むな」はどう言う事でしょうか。父の時にはその時の流れで仏式のお葬式にしたのですが、その後の法事の案内やらお布施の事やらで嫌な思いをし、子供達にはそんな思いをして欲しく無いと考えたのでしょうか。一方で姉が母にエンディングノートを用意して色々と聞き取り書きをしていたのですが、それにも「家族葬にして欲しい」と「お坊さんは頼むな」は書いて有りました。

 さて、家族によるお坊さん無しのお葬式をどうしたものだろうか。家族葬だからと言って味気ないお葬式にはしたく有りませんし、私達姉弟は色々と議論をしたうえで音楽葬にしようと決めました。母の好きな音楽は姉に用意して貰いました。

 私の簡単な挨拶のあと母の好きな音楽の中で10人程の家族が順次焼香をし、更に母が生前に好きだった花、トルコ桔梗とカーネーションはお通夜で、そしてバラとガーベラは告別式で順次祭壇に献花しました。

 終わって見ますと本当に良いお葬式が出来たと思います。母の好きな音楽の中で家族達が順次焼香と献花で見送る、心に残るお葬式でした。そして母には97年の生涯、大変ご苦労様でした。そして有難うございます。