瑜伽行派の唯識説
東京大学出版会発行、早島鏡正・高崎直道・原実・前田専学著の「インド思想史」を読んで見ました。以前にも何度か読んだのですが古代から近・現代までのインド思想を網羅するのが目的の本なのでテーマの1つひとつについては簡潔に淡々と書かれている為に味気なく感じて記憶にも残っていない本でした。しかしインド思想については漏れなく紹介して有りますのでこのような本も教科書としては必要で、また価値も有るのでしょう。特に私のようにヒンドゥー思想には親しんでいるものの仏教には詳しくない者には役に立ちそうです。
第一章 哲学的思惟の形成
1、ヴェーダの宗教と思想
2、反ヴェーダ的自由思想の成立
3、政治思想と法思想
4、民衆の思想:叙事詩とプラーナ
5、大乗仏教の成立と大乗経典の思想 と読み進み、
第二章 哲学体系の確立と展開 に入りますと、
1、仏教の諸体系 の所で瑜伽行派の唯識説に行き当たり、これは面白いと思いました。
瑜伽行派とはヨーガを実践する人々と言う事だそうですので瑜伽行派の唯識説とはヨガ行者の唯識説と言う事になります。それでは唯識説とはどう言うものでしょうか。
「唯識観とは、禅定中に体験される種々の影像は心の所現であることの確認から、われわれの日常経験する諸相もすべて心のつくり出したイメージにすぎないと観得し、すすんで、見られる対象が実有でない以上、かく観得する心もまた存在しないと体得する。これを唯識性(すべて表象としてのみあるということ)に入ると称し、それが対象と主観とが一体となった(どちらもない)悟りの境位であると説くものである」。・・・難しいですね。
主観が対象を認識しますね。その認識の表象だけが実在であって主観も対象も実在しないと言う考えのようです。そして認識の表象はアーラヤ識(貯蔵処としての識、潜在意識。ヨガではサムスカーラと言います)に貯蔵され、それが新しい表象として刹那刹那に作り出される、その表象と潜在意識との永遠の循環が現象世界であると言う事のようです。そして更に、
「アートマンが無いのに何がどうして業を背負って輪廻するのかという、仏教が古くから抱えていた難問に対する解答としてあみだされた理論であった」。・・・なるほど。
ゴータマ・ブッダが7日7晩ニルヴァーナに浸っていた時に次から次にその前世を思い出していたと言いますから仏教には輪廻転生の思想が有ります。ところがその一方で仏教はゼロ元論ですからアートマン(永遠の自己)など存在しないと主張しています。それでは輪廻転生の際に何が継承されるのか、苦しいところですね。そこで瑜伽行派の唯識説では主観も対象も実在しないけれども認識の表象とアーラヤ識(潜在意識)との永遠の循環が輪廻転生するのだと主張している訳です。仏教が時代と共により理屈を磨いているのが良く分かりました。
私など仏教はゼロ元論を放棄すれば良いのにと思うのですが、なかなかそうもいかないようです。
東京大学出版会発行、早島鏡正・高崎直道・原実・前田専学著の「インド思想史」を読んで見ました。以前にも何度か読んだのですが古代から近・現代までのインド思想を網羅するのが目的の本なのでテーマの1つひとつについては簡潔に淡々と書かれている為に味気なく感じて記憶にも残っていない本でした。しかしインド思想については漏れなく紹介して有りますのでこのような本も教科書としては必要で、また価値も有るのでしょう。特に私のようにヒンドゥー思想には親しんでいるものの仏教には詳しくない者には役に立ちそうです。
第一章 哲学的思惟の形成
1、ヴェーダの宗教と思想
2、反ヴェーダ的自由思想の成立
3、政治思想と法思想
4、民衆の思想:叙事詩とプラーナ
5、大乗仏教の成立と大乗経典の思想 と読み進み、
第二章 哲学体系の確立と展開 に入りますと、
1、仏教の諸体系 の所で瑜伽行派の唯識説に行き当たり、これは面白いと思いました。
瑜伽行派とはヨーガを実践する人々と言う事だそうですので瑜伽行派の唯識説とはヨガ行者の唯識説と言う事になります。それでは唯識説とはどう言うものでしょうか。
「唯識観とは、禅定中に体験される種々の影像は心の所現であることの確認から、われわれの日常経験する諸相もすべて心のつくり出したイメージにすぎないと観得し、すすんで、見られる対象が実有でない以上、かく観得する心もまた存在しないと体得する。これを唯識性(すべて表象としてのみあるということ)に入ると称し、それが対象と主観とが一体となった(どちらもない)悟りの境位であると説くものである」。・・・難しいですね。
主観が対象を認識しますね。その認識の表象だけが実在であって主観も対象も実在しないと言う考えのようです。そして認識の表象はアーラヤ識(貯蔵処としての識、潜在意識。ヨガではサムスカーラと言います)に貯蔵され、それが新しい表象として刹那刹那に作り出される、その表象と潜在意識との永遠の循環が現象世界であると言う事のようです。そして更に、
「アートマンが無いのに何がどうして業を背負って輪廻するのかという、仏教が古くから抱えていた難問に対する解答としてあみだされた理論であった」。・・・なるほど。
ゴータマ・ブッダが7日7晩ニルヴァーナに浸っていた時に次から次にその前世を思い出していたと言いますから仏教には輪廻転生の思想が有ります。ところがその一方で仏教はゼロ元論ですからアートマン(永遠の自己)など存在しないと主張しています。それでは輪廻転生の際に何が継承されるのか、苦しいところですね。そこで瑜伽行派の唯識説では主観も対象も実在しないけれども認識の表象とアーラヤ識(潜在意識)との永遠の循環が輪廻転生するのだと主張している訳です。仏教が時代と共により理屈を磨いているのが良く分かりました。
私など仏教はゼロ元論を放棄すれば良いのにと思うのですが、なかなかそうもいかないようです。