縁起説法と無常説法

 仏教はゼロ元論であると前回申し上げましたが、そもそも最初から仏教はゼロ元論だったのだろうかと原始仏典を調べて見たくなり大蔵出版株式会社発行、増谷文雄著の「(阿含経典による)仏教の根本聖典」を読み返して見る事にしました。この本は何度か読んでは見たものの途中で撃退されて嫌な思いをしていました。増谷文雄さんの表現は優しいのですが、本の中に出て来る漢語の意味が掴めず頭が混乱してしまうのです。試しに縁起説法をご紹介しましょう。

 比丘たちよ、縁起とは何であろうか。比丘たちよ、無明に縁(よ)りて行があり、行に縁(よ)りて識があり、識に縁(よ)って名色があり、名色に縁(よ)って六処があり、六処によって蝕があり、蝕によって受があり、受によって愛があり、愛によって取があり、取によって有があり、有によって生があり、生によって老死があり、愁・悲・苦・憂・悩が生ずる。かかるものが、すべての苦しい人間存在の縁(よ)ってなるところである。比丘たちよ、これを縁によって生起するというのである。

 これ、意味が分かりますか?

 もちろん経典ではこの後に用語の説明が続くのですが、ページをめくり返しながら読むのが面倒で結局は撃退されていたものです。ここで用語の意味を私なりに解釈し、(かっこ)内に入れて読み下して見ましょう。

 比丘たちよ、縁起(縁によって起こる)とは何であろうか。比丘たちよ、無明(無知)に縁(よ)りて行(おこない)があり、行(おこない)に縁(よ)りて識(認識)があり、識(認識)によって名色(名と色。名=受、想、思、蝕、作意。色=地・水・火・風。つまり名色=心・体・物質世界)があり、名色(心・体・物質世界)によって六処(眼・耳・鼻・舌・身・意=感覚器官+思考器官)があり、六処(感覚器官+思考器官)によって蝕(接触)があり、蝕(接触 )によって受(感覚)があり、受(感覚)によって愛(love)があり、愛(love)によって取(執着)があり、取(執着)によって有(生存)があり、有(生存)によって生(誕生)があり、生(誕生)によって老死があり、愁・悲・苦・憂・悩が生ずる。かかるものが、すべての苦しい人間存在の縁(よ)ってなるところである。比丘たちよ、これを縁によって生起するというのである。

 これで少しは意味が通りましたでしょうか。

 それでは次に無常説法を読んで見ましょう。

 比丘たちよ、過去の物象(色)は無常であった。未来の物象も無常である。そして現在の物象もまた無常である。比丘たちよ、私の教えるところを聞いて、このように観たる聖弟子たちは、過ぎ去れる物象を顧み追うことなく、いまだ来たらざる物象を悦び求むることなく、現に在るところの物象を厭い嫌い、欲を離れ、滅尽に向かうのである。比丘たちよ、このことは、受についてもおなじである。想、行についてもおなじであり、また識について言うもおなじである。

 般若心経に出て来る五蘊、色・受・想・行・識がここに出て来ましたね。五蘊とはこの世界を構成する5つの要素の事であり、色=物質世界、受=感覚、想=感情の言語化、行=潜在意識、識=統覚に相当します。そして色即是空で始まる五蘊皆空は有名ですね。「空(くう)」は空っぽの事ですから般若心経は完全なゼロ元論です。

 そしてそうしますと、同じ原始仏典の縁起説法と無常説法なのに使われている言葉の定義の違う事が分かりますね。縁起説法で「行」は(おこない)でしたが無常説法での「行」は(潜在意識)の事です。また、縁起説法で「識」は只の(認識)でしたが無常説法での「識」は心の働きの中でも高度の(統覚)の事です。(統覚)は認識を統合して決断する働きをします。ですからこのように漢語の解釈による仏典の理解は本当に難しいものです。

 さて、般若心経で五蘊(色・受・想・行・識)は空(くう)、つまり空っぽ、つまりゼロ元論でしたが、原始仏典の無常説法では五蘊(色・受・想・行・識)は無常、つまり転変すると表現されていますので完全にゼロでは有りませんね。ゴータマ・ブッダには空(くう)と言う概念は無かった。いや、ゴータマ・ブッダには一元論や二元論、そしてゼロ元論などはどうでも良い概念で、今そこで苦悩している人達を救うのが現実のテーマだったのでしょう。

 しかし紀元前500年ですよ、この人が居ましたのは。