どっちもセーフ
母の健康が相当回復したと言うので見舞いがてらに様子を確認しようと9月20日から23日まで3泊4日で熊本へ行って来ました。
5月の帰省時に母は気管支炎とそれに伴う関節痛で苦しんでいました。咳をしながら右を向いても痛い、左を向いても痛い、上を向いても痛いと身の置きどころの無い様子で、咳の鎮まっている間には眠り続け、目覚めても食事が取れず栄養ドリンクで命を繋いでいると思えました。
6月には高齢者施設の施設長さんから姉に電話が有り「お子さん達にお母様のお顔を見ていただきたい」と言うのでこれは一大事、慌ててホテルと飛行機を取り姉と2人で熊本へ飛びました。私は黒い靴を履き、礼服と黒ネクタイもキャリーバッグに入れました。5月の様子を見ていましたので覚悟も有りました。施設に併設の医院の先生に聞きに行きますと、このまま終末に向かっている訳では無く徐々に回復しますが96才と年齢も年齢なので油断は出来ませんと言われ、栄養ドリンクの栄養価ももう少し上げましょうとも言ってくれました。母は苦しそうに眠り続け、この時も食事は取れず栄養ドリンクで命を繋いでいました。
7月には母の病状が分かりました。気管支炎はとっくに治っているのだが胆嚢(たんのう)に炎症が出ているので抗生物質を使っても良いかと問い合わせが有り、姉と私は是非も無くお願いしました。施設では要介護の度合いの申請をしてくれ、これまで要介護1だったのがいきなり要介護5とマックスに跳ね上がりました。その時に母は完全に寝たきり状態だったのです。
抗生物質が効いたのでしょうか、8月に入ると母は目覚ましく回復して来たと言います。1人で食事も出来るようになったしデイサービスにも参加しているとの事で、あまりの回復具合に驚きです。
9月20日、夕刻に高齢者施設に着きますと母は入居者の皆さんと一緒にデイサービスで遊戯をしており、私も風船でのバレーボールを一緒にやりました。しかし母は完全に車椅子生活になっていましたし、また一段と耳も遠くなり耳元で叫ばないと聞こえないようで、回復の一方で老化は確実に進んでいるようです。翌21日の朝には施設に併設の医院の先生にお礼を言いに行きました。先生のお話では胆嚢(たんのう)の炎症が徐々に鎮まった上に食欲の回復したのが大きい、しかしこれからも波は有り、段々に弱って行くのだそうです。この日の母は食事も皆さんと一緒で、食器も自分で持ち1人で食べました。22日は朝から調子が悪いそうで自室のベッドで横になっていました。昼食は介護士さんがスプーンで食べさせてくれました。やはり波があるようです。夕刻には先生が部屋へ往診に来てくれました。23日にはホテルをチェックアウトして阿蘇熊本空港へ行くまで施設で母と過ごしました。デイサービスの部屋で遊戯には参加せずソファーに居た母に耳元で大声で話しかけますと入居者のお婆さんに「うるさい!」と怒鳴られ、私は母の車椅子を押して母の部屋へ移動しました。この日の母は自分で食事も出来、私が空港へ向かう時には母と手を握り合ってお別れしました。
母の状態がこんな風だった丁度その頃、私の娘も人生の節目を迎えていました。
今年の1月4日に娘夫婦が新年の挨拶に来ましたが、その時に娘の妊娠の報告が有りました。予定日は7月18日で、37才での高齢出産になります。
6月19日に娘から電話が有り、切迫早産の危機だと言われました。その翌日から娘にはうちで静養させ、何とか予定日まで持たせようと努力します。しかし7月9日の夕刻に娘は破水して産婦人科医院に入院、予定日より18日早く翌7月10日早朝に無事出産しました。2640gの男の子。退院してから4週間は娘と孫をうちで静養させ8月12日には夫君の待つマンションに送り届けました。ところが。
10日程経った8月22日の早朝に娘から電話が有り、ひどい腹痛だと言います。娘と孫を車で迎えに行き産婦人科医院へ連れて行きますと診察の結果産婦人科の症状では無いのでと近くの総合病院を紹介され、孫も連れてそのまま総合病院へ。CT検査もした上で先生の診断は憩室炎(腸の炎症)で即入院しなさいとの事でしたが入院は翌日にして貰い、孫の世話も一段落し両親の様子を見ようと実家へ帰ったばかりだった妻が急遽翌日には戻って来る事になりました。そして娘の入院は1週間、その間娘はうちに居ないので私達夫婦、つまり70才と62才とで孫の世話をすると言うハプニング。孫は生後1ヶ月の乳児ですから妻が24時間体制で頑張りました。退院した娘はそれから1週間抗生物質を飲み、9月6日にはやっと全快の診断を受けました。ところが。
翌7日の夕刻に娘が今度は胸の痛みを訴え顔色は真っ青です。胸の痛みは2度続き、私は肋間神経痛なのだろうとは思いましたが念の為、翌朝には近所の内科医院へ行かせました。診察の結果は異型狭心症のようだから24H心電図を取りましょうとの事で、何処まで続くぬかるみぞ。インターネットで調べて見ますと動脈硬化や糖尿病で虚血が起こる通常の狭心症と違って、異型狭心症では器官の異常は無いのに心臓近くの血管が痙攣して虚血を起こすのだそうです。24時間の心電図を取った娘が翌日に内科医院へ行きますと、心電図の結果は10日後あたりには分かりますとの事でした。10日後と言えば9月20日。
私は熊本の母を見舞うべく9月20日から23日の日程でビジネスホテルと飛行機を取っていました。娘にはその後症状は出ていないようなので娘と話し合い、娘の夫君も妻子の帰りを相当待っている事だろうし、娘と孫には9月17日に一旦マンションに帰らせて20日からは私は熊本へ行く、そして私が熊本から戻って都合の良い時に娘を再びマンションへ迎えに行き、内科医院で24H心電図の結果を聞こうではないかと言う事にしました。
9月29日に娘と孫を迎えに行き娘達はうちに1泊、翌朝に娘は内科医院へ行きました。24H心電図の結果狭心症の兆候は見られず、しばらくは様子を見ましょうとの経過観察の診断でした。
96才と高齢の母親に生命の危機が襲い、丁度その頃に37才の娘が高齢出産をしてその後も色々起こると言う、誠に今風のサンドイッチ状態の経験をしてしまいましたが、母も娘もどっちもセーフ。しばらくは穏やかな日々に戻れそうです。
母の健康が相当回復したと言うので見舞いがてらに様子を確認しようと9月20日から23日まで3泊4日で熊本へ行って来ました。
5月の帰省時に母は気管支炎とそれに伴う関節痛で苦しんでいました。咳をしながら右を向いても痛い、左を向いても痛い、上を向いても痛いと身の置きどころの無い様子で、咳の鎮まっている間には眠り続け、目覚めても食事が取れず栄養ドリンクで命を繋いでいると思えました。
6月には高齢者施設の施設長さんから姉に電話が有り「お子さん達にお母様のお顔を見ていただきたい」と言うのでこれは一大事、慌ててホテルと飛行機を取り姉と2人で熊本へ飛びました。私は黒い靴を履き、礼服と黒ネクタイもキャリーバッグに入れました。5月の様子を見ていましたので覚悟も有りました。施設に併設の医院の先生に聞きに行きますと、このまま終末に向かっている訳では無く徐々に回復しますが96才と年齢も年齢なので油断は出来ませんと言われ、栄養ドリンクの栄養価ももう少し上げましょうとも言ってくれました。母は苦しそうに眠り続け、この時も食事は取れず栄養ドリンクで命を繋いでいました。
7月には母の病状が分かりました。気管支炎はとっくに治っているのだが胆嚢(たんのう)に炎症が出ているので抗生物質を使っても良いかと問い合わせが有り、姉と私は是非も無くお願いしました。施設では要介護の度合いの申請をしてくれ、これまで要介護1だったのがいきなり要介護5とマックスに跳ね上がりました。その時に母は完全に寝たきり状態だったのです。
抗生物質が効いたのでしょうか、8月に入ると母は目覚ましく回復して来たと言います。1人で食事も出来るようになったしデイサービスにも参加しているとの事で、あまりの回復具合に驚きです。
9月20日、夕刻に高齢者施設に着きますと母は入居者の皆さんと一緒にデイサービスで遊戯をしており、私も風船でのバレーボールを一緒にやりました。しかし母は完全に車椅子生活になっていましたし、また一段と耳も遠くなり耳元で叫ばないと聞こえないようで、回復の一方で老化は確実に進んでいるようです。翌21日の朝には施設に併設の医院の先生にお礼を言いに行きました。先生のお話では胆嚢(たんのう)の炎症が徐々に鎮まった上に食欲の回復したのが大きい、しかしこれからも波は有り、段々に弱って行くのだそうです。この日の母は食事も皆さんと一緒で、食器も自分で持ち1人で食べました。22日は朝から調子が悪いそうで自室のベッドで横になっていました。昼食は介護士さんがスプーンで食べさせてくれました。やはり波があるようです。夕刻には先生が部屋へ往診に来てくれました。23日にはホテルをチェックアウトして阿蘇熊本空港へ行くまで施設で母と過ごしました。デイサービスの部屋で遊戯には参加せずソファーに居た母に耳元で大声で話しかけますと入居者のお婆さんに「うるさい!」と怒鳴られ、私は母の車椅子を押して母の部屋へ移動しました。この日の母は自分で食事も出来、私が空港へ向かう時には母と手を握り合ってお別れしました。
母の状態がこんな風だった丁度その頃、私の娘も人生の節目を迎えていました。
今年の1月4日に娘夫婦が新年の挨拶に来ましたが、その時に娘の妊娠の報告が有りました。予定日は7月18日で、37才での高齢出産になります。
6月19日に娘から電話が有り、切迫早産の危機だと言われました。その翌日から娘にはうちで静養させ、何とか予定日まで持たせようと努力します。しかし7月9日の夕刻に娘は破水して産婦人科医院に入院、予定日より18日早く翌7月10日早朝に無事出産しました。2640gの男の子。退院してから4週間は娘と孫をうちで静養させ8月12日には夫君の待つマンションに送り届けました。ところが。
10日程経った8月22日の早朝に娘から電話が有り、ひどい腹痛だと言います。娘と孫を車で迎えに行き産婦人科医院へ連れて行きますと診察の結果産婦人科の症状では無いのでと近くの総合病院を紹介され、孫も連れてそのまま総合病院へ。CT検査もした上で先生の診断は憩室炎(腸の炎症)で即入院しなさいとの事でしたが入院は翌日にして貰い、孫の世話も一段落し両親の様子を見ようと実家へ帰ったばかりだった妻が急遽翌日には戻って来る事になりました。そして娘の入院は1週間、その間娘はうちに居ないので私達夫婦、つまり70才と62才とで孫の世話をすると言うハプニング。孫は生後1ヶ月の乳児ですから妻が24時間体制で頑張りました。退院した娘はそれから1週間抗生物質を飲み、9月6日にはやっと全快の診断を受けました。ところが。
翌7日の夕刻に娘が今度は胸の痛みを訴え顔色は真っ青です。胸の痛みは2度続き、私は肋間神経痛なのだろうとは思いましたが念の為、翌朝には近所の内科医院へ行かせました。診察の結果は異型狭心症のようだから24H心電図を取りましょうとの事で、何処まで続くぬかるみぞ。インターネットで調べて見ますと動脈硬化や糖尿病で虚血が起こる通常の狭心症と違って、異型狭心症では器官の異常は無いのに心臓近くの血管が痙攣して虚血を起こすのだそうです。24時間の心電図を取った娘が翌日に内科医院へ行きますと、心電図の結果は10日後あたりには分かりますとの事でした。10日後と言えば9月20日。
私は熊本の母を見舞うべく9月20日から23日の日程でビジネスホテルと飛行機を取っていました。娘にはその後症状は出ていないようなので娘と話し合い、娘の夫君も妻子の帰りを相当待っている事だろうし、娘と孫には9月17日に一旦マンションに帰らせて20日からは私は熊本へ行く、そして私が熊本から戻って都合の良い時に娘を再びマンションへ迎えに行き、内科医院で24H心電図の結果を聞こうではないかと言う事にしました。
9月29日に娘と孫を迎えに行き娘達はうちに1泊、翌朝に娘は内科医院へ行きました。24H心電図の結果狭心症の兆候は見られず、しばらくは様子を見ましょうとの経過観察の診断でした。
96才と高齢の母親に生命の危機が襲い、丁度その頃に37才の娘が高齢出産をしてその後も色々起こると言う、誠に今風のサンドイッチ状態の経験をしてしまいましたが、母も娘もどっちもセーフ。しばらくは穏やかな日々に戻れそうです。