「コーラン」の解説 下巻
岩波文庫、井筒俊彦訳「コーラン」下巻末尾の井筒さんの解説の一部です。解説は下巻についての解説に続き、上、中、下巻を通じての、「コーラン」の発展史になっていますので、これだけでも読む価値が有ると思います。
本巻には中期、初期、最初期の啓示をおさめた。・・・一般的に言って、初期啓示の誰にもすぐそれとわかる目じるしは誓言形式である。・・・「何々にかけて・・・(誓言する)」という語り出しの形がそれであって、それが章を逐って次第に複雑な奇怪な形をとり、一種独特の詩的陶酔のような不思議な雰囲気をかもし出して行く。
初期の啓示の示すこの言葉の拍動と弛緩とをなんとか日本語に移せないものかと僕はずいぶん努力して見た。だが結局成功しなかったし、またするはずもなかった。日本語では伝統的に七五調というものがあって、言葉を一番普通の形でリズミカルに弾ませると大体この形になってしまうが、「コーラン」の緊迫しきった部分の文体は、まず、七五のかわりに五五調か長くて五五五調ぐらいが一行で、しかもそれを強烈な脚韻でぐっぐっと引き緊めたようなもの、第一にこの脚韻の点で日本語は問題にならない。
石を立ててこれを「神のお宿」と称し、これをめぐって淫乱な祭祀をつくることはアラビアだけでなく、ひろく古代セム人の世界全般を通じて見られる現象である。
こうした聖石崇拝がどれほど人心に深く喰い入っていたかということは、偶像崇拝にあれほど烈しく対抗した当のイスラムが、結局は「神のお宿」を二つまでもその祭祀形式の中心に採り入れたことによっても明らかであろう。メッカの神殿カアバの真中に安置された二つの石、一つは誰知らぬものもない、有名な黒石、もう一つは「アブラハム御立処(おんたちどころ)」で、後者は「コーラン」第三章にそのまま出ている。共に連綿として今日まで回教徒の尊信の的となって存続している。
以上が下巻への解説で、以降は上、中、下巻を通じての総合的な解説になります。
メッカとメディナ
国際貿易の通路として一番大切な役割をはたしていたのが紅海に沿う西アラビアの陸地帯だったのである。・・・西アラビアのキャラヴァン道のほとりに幾つかの町が興り栄えた。中でも最も強力だったのがメッカである。メッカの商業、つまりその経済力は、この町の主要住民であるクライシュという部族に完全に掌握されていた。・・・メッカには「ザムザムの井戸」と呼ばれる名高い水場があり、かつ町の中心にはカアバと呼ばれる偶像教の大神殿があって、これらが相い寄ってこの町をいやが上にも全北アラビアの中心地に仕立てあげたのである。・・・カアバの神殿。今日、この神殿こそ全世界の回教徒の信仰の中心として、いわば回教の総本山のようなものであるが、マホメット以前には邪宗の総本山だった。
この神殿に祀られていた偶像の数は数百にのぼったと伝えられている。・・・とにかくあらゆる部族がそれぞれ自分の信奉する偶像をここに安置していた。・・・あくまで部族を中心として、「部族の中に、部族のために」生活するアラビア人が、ここでは一つの民族だった。
この神殿カアバの祭祀を彼らの手から奪取し、はっきりと社会主義的な政策を打ち出すことによって富裕階級としての彼らの地盤をあやうくしようとしたマホメットの活動に、クライシュ族が部族の生死を賭けて反抗したのも、至極当然のことと言わねばならない。
次にメディナ、その本当の名はヤスリブと言い、メディナとは「都」の意、つまり「預言者(マホメット)の都」の意であって、これはマホメットがこの町に移ってから後に新しくできた呼び名である。・・・この町にはメッカにはない一つの大きな特徴があった。それは濃厚なユダヤ的色彩である。・・・メディナでは富裕階級は全部ユダヤ人であった。・・・メッカが偶像崇拝の一大中心地であるに反して、メディナは旧約的な一神教の雰囲気に包まれていた。
メッカのマホメット
歿年から逆算して、彼の生年は大体西暦570年頃ということになっている。生まれて父を知らず、六歳にして母も死亡し、年老いた祖父にひきとられて育ったが、これまた三、四年で死に、次に叔父のアブー・ターリブにひきとられた。
孤児にはできるだけやさしくしてやれ、乞食には食物を恵んでやれ、それが「コーラン」の教えの最も重要な一項目である。
やがてマホメットはハディージャという未亡人の経営する交易商社に雇われる。・・・この社長に見込まれたマホメットはとうとう彼女に結婚を申し込まれる。時に彼はおよそ二十五歳、彼女は四十歳前後。・・・思いがけぬ幸福に恵まれたマホメットに約十五年の平穏無事な日々が流れた。・・・ところが、ようやく四十歳になる頃から彼の内面には不思議な変化が見え始める・・・彼はメッカ近郊のヒラー山の洞窟に独りこもって、禁欲生活に入る。・・・ある年のラマザン月のある夜、突如として超自然的なものの圧力がのしかかって来た。後日彼はそれを天使ガブリエルの降臨と解した。・・・気の弱い夫をはげまし、力づけて、ついにアラビアの預言者に仕立て上げたのは冷静で大胆なハディージャであった。彼女はこれが神の霊感であることを信じて疑わなかった。
マホメットの説く新宗教は、アラビア人が一番大切にしている先祖伝来の神々の崇拝に真正面から反対して、聖書系統の唯一神の崇拝を唱える。そればかりか「コーラン」の社会政策は、貧乏人にはすこぶる都合がいいが、金持ちにはひどく具合の悪いものである。今の言葉で言うと、明らかに社会主義的である。・・・そこでクライシュ族あげての猛烈な反抗が開始された。・・・かてて加えて、一番の頼みの綱だった妻ハディージャと叔父のアブー・ターリブにも死なれてしまった。・・・普通のアラビア人なら、もうここで万事窮す、である。・・・破滅の寸前、彼は血路をひらくことに成功した。それがいわゆるメディナへの「遷行(ヒジュラ)」である。
メディナのマホメット
腹心の友アブー・バクルとただ二人、メディナに入った。時に西暦622年、七月十六日。これが回教暦第一年の始まりである。彼はここで始めて宗教集団であると同時にまた強固な政治団体でもあるような回教共同体を作り出すのに成功したのである。いわゆる「サラセン帝国」なるものの基礎を見事に打ち立てたのである。それはもはや、古代アラビア社会の伝統的基盤として神聖犯すべからざるものとされて来た「血のつながり」にもとづく部族共同体ではなく、共通の祭祀と、共通の利害関係にもとづく、広い、自由な共同体であった。・・・しかし、あまりにも見事なマホメットの政治的手腕、意外にもすみやかな回教共同体の成長、それはユダヤ人にとって彼らの経済的地位への危期の到来を意味した。
メディナに移って来た当初、マホメットはユダヤ教徒のキブラ(信者が礼拝する時にぬかずく方向)を採り、エルサレムの方向に向って礼拝することにきめた。しかしユダヤ人が俄然攻勢に出て来た今、彼らのキブラに従っていることはなんの効果もない。彼はしばらく思いまよったあげく、ついに意を決してメッカの神殿カアバを回教徒の祈りの方向ときめたのである。
マホメットの猛烈な攻撃を受けることになったユダヤ人たちは、その圧迫に堪えかねて次第にメディナを去り、北方のハイバルに逃れてそこに集結した。ユダヤ人たちは未だかつて誰も思いつかなかったような大連合軍を組織して、一挙にマホメットを押しつぶしてしまおうと計画した。まず四方のユダヤ人に呼びかけてこれを糾合し、これにメッカのクライシュ軍を加え、さらに北アラビア各地に散在する諸部族をも集めて一丸となした、「コーラン」第三三章で問題になっている諸部族連合軍である。
マホメットはメディナの周囲に深い溝を掘りめぐらすことを思いついた。攻め寄せて来た連合軍は(この作戦に)完全に度肝を抜かれてしまった。彼らは三週間ほどメディナをとり囲んでいたが、食糧はなくなり、疲れきって、そのままかこみを解いて帰って行った。
回教暦八年、西暦630年、彼は多年の念願かなって、平和裏にメッカに入り、神殿カアバの鍵を要求し、正面入口に鎮座するフバル神をはじめ無数の偶像を粉微塵に叩きこわしてしまう。散乱する邪神のただ中に立って、彼は参集した信徒たちに「今や異教時代は完全に終わった」と宣言した。
それから二年、回教暦十年、西暦632年、マホメットはメッカに正式の巡礼を行った。これが彼の最初で最後の巡礼であった。その年の六月八日、愛妻アーイシャの胸に抱かれたまま、彼は静かに息を引きとった。
岩波文庫、井筒俊彦訳「コーラン」下巻末尾の井筒さんの解説の一部です。解説は下巻についての解説に続き、上、中、下巻を通じての、「コーラン」の発展史になっていますので、これだけでも読む価値が有ると思います。
本巻には中期、初期、最初期の啓示をおさめた。・・・一般的に言って、初期啓示の誰にもすぐそれとわかる目じるしは誓言形式である。・・・「何々にかけて・・・(誓言する)」という語り出しの形がそれであって、それが章を逐って次第に複雑な奇怪な形をとり、一種独特の詩的陶酔のような不思議な雰囲気をかもし出して行く。
初期の啓示の示すこの言葉の拍動と弛緩とをなんとか日本語に移せないものかと僕はずいぶん努力して見た。だが結局成功しなかったし、またするはずもなかった。日本語では伝統的に七五調というものがあって、言葉を一番普通の形でリズミカルに弾ませると大体この形になってしまうが、「コーラン」の緊迫しきった部分の文体は、まず、七五のかわりに五五調か長くて五五五調ぐらいが一行で、しかもそれを強烈な脚韻でぐっぐっと引き緊めたようなもの、第一にこの脚韻の点で日本語は問題にならない。
石を立ててこれを「神のお宿」と称し、これをめぐって淫乱な祭祀をつくることはアラビアだけでなく、ひろく古代セム人の世界全般を通じて見られる現象である。
こうした聖石崇拝がどれほど人心に深く喰い入っていたかということは、偶像崇拝にあれほど烈しく対抗した当のイスラムが、結局は「神のお宿」を二つまでもその祭祀形式の中心に採り入れたことによっても明らかであろう。メッカの神殿カアバの真中に安置された二つの石、一つは誰知らぬものもない、有名な黒石、もう一つは「アブラハム御立処(おんたちどころ)」で、後者は「コーラン」第三章にそのまま出ている。共に連綿として今日まで回教徒の尊信の的となって存続している。
以上が下巻への解説で、以降は上、中、下巻を通じての総合的な解説になります。
メッカとメディナ
国際貿易の通路として一番大切な役割をはたしていたのが紅海に沿う西アラビアの陸地帯だったのである。・・・西アラビアのキャラヴァン道のほとりに幾つかの町が興り栄えた。中でも最も強力だったのがメッカである。メッカの商業、つまりその経済力は、この町の主要住民であるクライシュという部族に完全に掌握されていた。・・・メッカには「ザムザムの井戸」と呼ばれる名高い水場があり、かつ町の中心にはカアバと呼ばれる偶像教の大神殿があって、これらが相い寄ってこの町をいやが上にも全北アラビアの中心地に仕立てあげたのである。・・・カアバの神殿。今日、この神殿こそ全世界の回教徒の信仰の中心として、いわば回教の総本山のようなものであるが、マホメット以前には邪宗の総本山だった。
この神殿に祀られていた偶像の数は数百にのぼったと伝えられている。・・・とにかくあらゆる部族がそれぞれ自分の信奉する偶像をここに安置していた。・・・あくまで部族を中心として、「部族の中に、部族のために」生活するアラビア人が、ここでは一つの民族だった。
この神殿カアバの祭祀を彼らの手から奪取し、はっきりと社会主義的な政策を打ち出すことによって富裕階級としての彼らの地盤をあやうくしようとしたマホメットの活動に、クライシュ族が部族の生死を賭けて反抗したのも、至極当然のことと言わねばならない。
次にメディナ、その本当の名はヤスリブと言い、メディナとは「都」の意、つまり「預言者(マホメット)の都」の意であって、これはマホメットがこの町に移ってから後に新しくできた呼び名である。・・・この町にはメッカにはない一つの大きな特徴があった。それは濃厚なユダヤ的色彩である。・・・メディナでは富裕階級は全部ユダヤ人であった。・・・メッカが偶像崇拝の一大中心地であるに反して、メディナは旧約的な一神教の雰囲気に包まれていた。
メッカのマホメット
歿年から逆算して、彼の生年は大体西暦570年頃ということになっている。生まれて父を知らず、六歳にして母も死亡し、年老いた祖父にひきとられて育ったが、これまた三、四年で死に、次に叔父のアブー・ターリブにひきとられた。
孤児にはできるだけやさしくしてやれ、乞食には食物を恵んでやれ、それが「コーラン」の教えの最も重要な一項目である。
やがてマホメットはハディージャという未亡人の経営する交易商社に雇われる。・・・この社長に見込まれたマホメットはとうとう彼女に結婚を申し込まれる。時に彼はおよそ二十五歳、彼女は四十歳前後。・・・思いがけぬ幸福に恵まれたマホメットに約十五年の平穏無事な日々が流れた。・・・ところが、ようやく四十歳になる頃から彼の内面には不思議な変化が見え始める・・・彼はメッカ近郊のヒラー山の洞窟に独りこもって、禁欲生活に入る。・・・ある年のラマザン月のある夜、突如として超自然的なものの圧力がのしかかって来た。後日彼はそれを天使ガブリエルの降臨と解した。・・・気の弱い夫をはげまし、力づけて、ついにアラビアの預言者に仕立て上げたのは冷静で大胆なハディージャであった。彼女はこれが神の霊感であることを信じて疑わなかった。
マホメットの説く新宗教は、アラビア人が一番大切にしている先祖伝来の神々の崇拝に真正面から反対して、聖書系統の唯一神の崇拝を唱える。そればかりか「コーラン」の社会政策は、貧乏人にはすこぶる都合がいいが、金持ちにはひどく具合の悪いものである。今の言葉で言うと、明らかに社会主義的である。・・・そこでクライシュ族あげての猛烈な反抗が開始された。・・・かてて加えて、一番の頼みの綱だった妻ハディージャと叔父のアブー・ターリブにも死なれてしまった。・・・普通のアラビア人なら、もうここで万事窮す、である。・・・破滅の寸前、彼は血路をひらくことに成功した。それがいわゆるメディナへの「遷行(ヒジュラ)」である。
メディナのマホメット
腹心の友アブー・バクルとただ二人、メディナに入った。時に西暦622年、七月十六日。これが回教暦第一年の始まりである。彼はここで始めて宗教集団であると同時にまた強固な政治団体でもあるような回教共同体を作り出すのに成功したのである。いわゆる「サラセン帝国」なるものの基礎を見事に打ち立てたのである。それはもはや、古代アラビア社会の伝統的基盤として神聖犯すべからざるものとされて来た「血のつながり」にもとづく部族共同体ではなく、共通の祭祀と、共通の利害関係にもとづく、広い、自由な共同体であった。・・・しかし、あまりにも見事なマホメットの政治的手腕、意外にもすみやかな回教共同体の成長、それはユダヤ人にとって彼らの経済的地位への危期の到来を意味した。
メディナに移って来た当初、マホメットはユダヤ教徒のキブラ(信者が礼拝する時にぬかずく方向)を採り、エルサレムの方向に向って礼拝することにきめた。しかしユダヤ人が俄然攻勢に出て来た今、彼らのキブラに従っていることはなんの効果もない。彼はしばらく思いまよったあげく、ついに意を決してメッカの神殿カアバを回教徒の祈りの方向ときめたのである。
マホメットの猛烈な攻撃を受けることになったユダヤ人たちは、その圧迫に堪えかねて次第にメディナを去り、北方のハイバルに逃れてそこに集結した。ユダヤ人たちは未だかつて誰も思いつかなかったような大連合軍を組織して、一挙にマホメットを押しつぶしてしまおうと計画した。まず四方のユダヤ人に呼びかけてこれを糾合し、これにメッカのクライシュ軍を加え、さらに北アラビア各地に散在する諸部族をも集めて一丸となした、「コーラン」第三三章で問題になっている諸部族連合軍である。
マホメットはメディナの周囲に深い溝を掘りめぐらすことを思いついた。攻め寄せて来た連合軍は(この作戦に)完全に度肝を抜かれてしまった。彼らは三週間ほどメディナをとり囲んでいたが、食糧はなくなり、疲れきって、そのままかこみを解いて帰って行った。
回教暦八年、西暦630年、彼は多年の念願かなって、平和裏にメッカに入り、神殿カアバの鍵を要求し、正面入口に鎮座するフバル神をはじめ無数の偶像を粉微塵に叩きこわしてしまう。散乱する邪神のただ中に立って、彼は参集した信徒たちに「今や異教時代は完全に終わった」と宣言した。
それから二年、回教暦十年、西暦632年、マホメットはメッカに正式の巡礼を行った。これが彼の最初で最後の巡礼であった。その年の六月八日、愛妻アーイシャの胸に抱かれたまま、彼は静かに息を引きとった。