「コーラン」の解説 中巻
今回は、岩波文庫、井筒俊彦訳「コーラン」中巻の、井筒さんの解説の一部です。
「コーラン」はマホメットが執筆した書物ではない。これはむしろマホメットが自己意識を喪失して、つまりマホメットがマホメットでなくなって、完全な他者意識のうちに語り出した不思議な言葉の集大成である。・・・注意すべきことは、この他者意識的な語り出し(すなわち天啓)は一時に下ったのではなく、少しずつ切れぎれに、約二十年もの長い歳月をかけて下ったという事実である。この二十年間の預言者マホメットのあの目まぐるしい活躍、人間的成長、社会的政治的条件の発展を思えば、それを如実に反映する「コーラン」そのものの中にも、はっきり一つの発展史が認められることは当然でなければなるまい。
今日「コーラン」を研究する学者はその全過程を大体次の三段階に大別するのが常である。
(一)初期 メッカ時代
(二)中期 メッカ・メディナ時代
(三)後記 メディナ時代
今度の口語訳の上巻は最後の(三)後記に当たり、この中巻は(二)中期、そして次の下巻は(一)初期に当たる。
さて、上巻を通読された方は、その内容が「聖典」というには余りにも現実的であり現実主義的であるのに驚かれたことと思う。現実的とは、この場合、大体政治的ないし立法的という意味に解して差支えない。マホメットはここでは単なる信仰者、純粋な内的信仰ただ一筋に生きる宗教家ではなく、強力な宗教運動の指導者であり、そればかりか、現世的一大王国(後世の史家のいうサラセン帝国)の政治的指導者である。
メッカ時代の後半からメディナ時代の前半にかけて、つまりこの中巻に該当する時期に、この初期の性格は前述の最後記のそれに向って大きなカーブを描いて変わり始めるのである。その変化の兆候は文体にも内容にもはっきりあらわれて来る。まず文体の方から言うと、何よりも表現の弛緩が目立つ。・・・この緊迫感が、中期に入ると急に弛緩しはじめるのだ。
純アラビア人の町、商人の町、そして遠い昔から偶像崇拝、多神教の一大中心地であったメッカとちがって、メディナはいわば人格的一神教の中心地、ユダヤ人の町だった。「聖書」、特に「旧約聖書」の知識はここでは殆んど日常的な常識であった。ユダヤ教徒とその聖典にたいするマホメットの関心は既にメッカ時代の後半にはじまっていたが、それが622年の「遷行(ヒジュラ)」でメディナに移住し、ユダヤ人の仲間入りするに至っていよいよ決定的な意義をもち始めたのである。
こうして彼の受ける天啓には、旧約文学の中心人物が続々と登場して来る。アダムとイヴの失楽園、ノアの洪水、アブラハムの信仰、エジプトのモーゼ、淫楽の都ソドムの滅亡、ダビデとソロモン、ゴグとマゴグ、大魚に呑まれたヨナ・・・世界中の「聖書」の読者に親しまれているこれらの主題がよくもこれほどと思わせるほど飽きず繰り返し繰り返し語られる。
井筒さんの言われるように、この中巻では同じような旧約聖書のお話がこれでもかこれでもかと続き、読み進むのに大変難儀しました。
今回は、岩波文庫、井筒俊彦訳「コーラン」中巻の、井筒さんの解説の一部です。
「コーラン」はマホメットが執筆した書物ではない。これはむしろマホメットが自己意識を喪失して、つまりマホメットがマホメットでなくなって、完全な他者意識のうちに語り出した不思議な言葉の集大成である。・・・注意すべきことは、この他者意識的な語り出し(すなわち天啓)は一時に下ったのではなく、少しずつ切れぎれに、約二十年もの長い歳月をかけて下ったという事実である。この二十年間の預言者マホメットのあの目まぐるしい活躍、人間的成長、社会的政治的条件の発展を思えば、それを如実に反映する「コーラン」そのものの中にも、はっきり一つの発展史が認められることは当然でなければなるまい。
今日「コーラン」を研究する学者はその全過程を大体次の三段階に大別するのが常である。
(一)初期 メッカ時代
(二)中期 メッカ・メディナ時代
(三)後記 メディナ時代
今度の口語訳の上巻は最後の(三)後記に当たり、この中巻は(二)中期、そして次の下巻は(一)初期に当たる。
さて、上巻を通読された方は、その内容が「聖典」というには余りにも現実的であり現実主義的であるのに驚かれたことと思う。現実的とは、この場合、大体政治的ないし立法的という意味に解して差支えない。マホメットはここでは単なる信仰者、純粋な内的信仰ただ一筋に生きる宗教家ではなく、強力な宗教運動の指導者であり、そればかりか、現世的一大王国(後世の史家のいうサラセン帝国)の政治的指導者である。
メッカ時代の後半からメディナ時代の前半にかけて、つまりこの中巻に該当する時期に、この初期の性格は前述の最後記のそれに向って大きなカーブを描いて変わり始めるのである。その変化の兆候は文体にも内容にもはっきりあらわれて来る。まず文体の方から言うと、何よりも表現の弛緩が目立つ。・・・この緊迫感が、中期に入ると急に弛緩しはじめるのだ。
純アラビア人の町、商人の町、そして遠い昔から偶像崇拝、多神教の一大中心地であったメッカとちがって、メディナはいわば人格的一神教の中心地、ユダヤ人の町だった。「聖書」、特に「旧約聖書」の知識はここでは殆んど日常的な常識であった。ユダヤ教徒とその聖典にたいするマホメットの関心は既にメッカ時代の後半にはじまっていたが、それが622年の「遷行(ヒジュラ)」でメディナに移住し、ユダヤ人の仲間入りするに至っていよいよ決定的な意義をもち始めたのである。
こうして彼の受ける天啓には、旧約文学の中心人物が続々と登場して来る。アダムとイヴの失楽園、ノアの洪水、アブラハムの信仰、エジプトのモーゼ、淫楽の都ソドムの滅亡、ダビデとソロモン、ゴグとマゴグ、大魚に呑まれたヨナ・・・世界中の「聖書」の読者に親しまれているこれらの主題がよくもこれほどと思わせるほど飽きず繰り返し繰り返し語られる。
井筒さんの言われるように、この中巻では同じような旧約聖書のお話がこれでもかこれでもかと続き、読み進むのに大変難儀しました。