「コーラン」の解説 上巻
岩波文庫、井筒俊彦訳「コーラン」の上、中、下巻を通読して見ました。
通読して分かりましたのは、イスラム教はユダヤ教やキリスト教と同じくアラビア発祥の宗教のカテゴリーに入る事でした。コーランでの「アッラー(神)」は旧約聖書での「ヤハウェ(神)」の事で、キリスト教では「父(神)」、ですからイスラム教はユダヤ教やキリスト教と同じく一神教であり、神は男性の人格神です。しかし、イスラム教ではイエス・キリストを神の子では無く神の使徒の人間であると説き、「父と子と聖霊」の三位一体説を否定しています。
アラビア発祥の宗教、つまりユダヤ教やキリスト教やイスラム教には共通する特徴が有ると私は思いました。いずれの宗教でも神は天地創造の唯一神なのですが、神と人間とが直接に対峙します。自己と環境世界(自然)の位置づけを見定めた上で神を語るインド思想とはここが違う、つまりアラビア発祥の宗教は自己と環境世界(自然)の位置づけにはあまり関心が無いようです。
イスラム教には「復活」の考えが有りますが、この「復活」はキリスト教の「復活」とは意味が違います。イスラム教では人が死にますとアッラー(神)がその人をお墓の中から生き返らせる(復活)のですが、それはアッラー(神)がその人に「最後の審判」を下す為です。生前に信仰篤く善い行いをした人は楽園へ導かれ、生前に信仰無く悪い行いをした人はゲヘナ(地獄の業火)で焼かれ続けます。
ところで、「コーラン」は他の宗教書とは随分趣が違います。旧約聖書や新約聖書に有る物語性が無く、また自己と環境世界の位置づけを丁寧に行うインド思想のような哲学も見当たりません。強いて言えばキリスト教や仏教の浄土宗のようなバクティ・ヨガ(信仰のヨガ)に近いのでしょうが、私には上手に説明が出来ません。
そこで、「コーラン(上)(中)(下)」には夫々の巻末に訳者の井筒さんが書かれた「解説」が有りますので、それを読む事で少しでも「コーラン」の理解が進めば良いと考え、それらの「解説」の一部をご紹介しましょう。先ずは上巻からです。
歴史的に見ると、回教はユダヤ教、キリスト教につづいて現れた第三番目のセム人種の宗教運動で、人格的唯一神の「啓示」を基とする全く同系、同種の宗教だが・・・一寸読んでみても何を言っているのかさっぱりわけがわからず・・・アラビア砂漠の砂そのもののごとく無味乾燥だというようなことにもなりかねない。
「コーラン」の原語「クルアーン」とは、もと読誦(どくじゅ)を意味した。この聖典は目で読むよりも、文句の意味を理解するよりも、何よりも先にまず声高く朗誦(ろうしょう)されなければならない。
丁度(太平洋)戦争が真最中の事だが、カイロの大学からやって来たある回教法学の先生が僕に言った、「コーラン」を翻訳してはいけない。それは宗教法に反する。だが日本語による解説(タフシール)ということにして出版すればよい、と。
古代アラビアのカーヒン(巫者、みこ)が、神がかりの状態に入ってものを語り出す時、それは必ず一種独特の発想形態を取るのを常とした。この文体をサジュウという。「サジュウ」体とは、ごく大ざっぱに言って見れば、まず散文と詩の中間のようなもので、長短さまざまの句を一定の詩的律動なしに、次々にたたみかけるように積み重ね、句末の韻だけできりっとしめくくって行く実に珍しい発想技術である。著しく調べの高い語句の大小が打ち寄せる大波小波のようにたたみかけ、それを繰り返し繰り返し同じ響きの脚韻で区切って行くと、言葉の流れには異常な緊張がみなぎって、これはもう言葉そのものが一種の陶酔である。・・・マホメットに乗り移った何者かの語る言葉なのである。その「何者か」の名をアッラーという。唯一にして至高なる神の謂(い)いである。
最初の頃は啓示は一切向うまかせ、つまり受動的で、何時、何処で神が乗り移って語り始めるかわからなかったのが、いつの間にか今度はマホメットの方が主体的に動くようになり、何か重大な問題を提起しさえすれば、必ずそれに応じて神の「お答え」が下されるということになって来たのである。この傾向はマホメットの予言者活動の後半期、つまり彼がメッカ市を去ってメディナ市に移住してから益々増大の一路を辿(たど)った。
ある偶然の事情で現行「コーラン」では時期的に後のものほど前に並べるような特殊な編集方針をとっているので、読者としては頁を繰るにつれて次第次第に初期の啓示に向って年代を遡行(そこう)して行くことになるのである。
さて、以上が井筒さんによる「コーラン(上)」の解説ですが、ここでイスラームと言う言葉の字義について「コーラン(上)」本編から抜き出して置きましょう。
アッラーの御目よりすれば、真の宗教はただ一つイスラーム(神に対する絶対無条件的服従を意味する)あるのみ。
「お前たち、すべてを神様におまかせしたか」と問うて見よ。それでもしすべてをおまかせしたというなら、もうそれだけでその人たちは立派に信仰の道に入っている(すべてを神の意志にまかせ切ってしまうこと、それをアラビア語ではイスラームという。そしてこれが直ちに回教の原名である)。
岩波文庫、井筒俊彦訳「コーラン」の上、中、下巻を通読して見ました。
通読して分かりましたのは、イスラム教はユダヤ教やキリスト教と同じくアラビア発祥の宗教のカテゴリーに入る事でした。コーランでの「アッラー(神)」は旧約聖書での「ヤハウェ(神)」の事で、キリスト教では「父(神)」、ですからイスラム教はユダヤ教やキリスト教と同じく一神教であり、神は男性の人格神です。しかし、イスラム教ではイエス・キリストを神の子では無く神の使徒の人間であると説き、「父と子と聖霊」の三位一体説を否定しています。
アラビア発祥の宗教、つまりユダヤ教やキリスト教やイスラム教には共通する特徴が有ると私は思いました。いずれの宗教でも神は天地創造の唯一神なのですが、神と人間とが直接に対峙します。自己と環境世界(自然)の位置づけを見定めた上で神を語るインド思想とはここが違う、つまりアラビア発祥の宗教は自己と環境世界(自然)の位置づけにはあまり関心が無いようです。
イスラム教には「復活」の考えが有りますが、この「復活」はキリスト教の「復活」とは意味が違います。イスラム教では人が死にますとアッラー(神)がその人をお墓の中から生き返らせる(復活)のですが、それはアッラー(神)がその人に「最後の審判」を下す為です。生前に信仰篤く善い行いをした人は楽園へ導かれ、生前に信仰無く悪い行いをした人はゲヘナ(地獄の業火)で焼かれ続けます。
ところで、「コーラン」は他の宗教書とは随分趣が違います。旧約聖書や新約聖書に有る物語性が無く、また自己と環境世界の位置づけを丁寧に行うインド思想のような哲学も見当たりません。強いて言えばキリスト教や仏教の浄土宗のようなバクティ・ヨガ(信仰のヨガ)に近いのでしょうが、私には上手に説明が出来ません。
そこで、「コーラン(上)(中)(下)」には夫々の巻末に訳者の井筒さんが書かれた「解説」が有りますので、それを読む事で少しでも「コーラン」の理解が進めば良いと考え、それらの「解説」の一部をご紹介しましょう。先ずは上巻からです。
歴史的に見ると、回教はユダヤ教、キリスト教につづいて現れた第三番目のセム人種の宗教運動で、人格的唯一神の「啓示」を基とする全く同系、同種の宗教だが・・・一寸読んでみても何を言っているのかさっぱりわけがわからず・・・アラビア砂漠の砂そのもののごとく無味乾燥だというようなことにもなりかねない。
「コーラン」の原語「クルアーン」とは、もと読誦(どくじゅ)を意味した。この聖典は目で読むよりも、文句の意味を理解するよりも、何よりも先にまず声高く朗誦(ろうしょう)されなければならない。
丁度(太平洋)戦争が真最中の事だが、カイロの大学からやって来たある回教法学の先生が僕に言った、「コーラン」を翻訳してはいけない。それは宗教法に反する。だが日本語による解説(タフシール)ということにして出版すればよい、と。
古代アラビアのカーヒン(巫者、みこ)が、神がかりの状態に入ってものを語り出す時、それは必ず一種独特の発想形態を取るのを常とした。この文体をサジュウという。「サジュウ」体とは、ごく大ざっぱに言って見れば、まず散文と詩の中間のようなもので、長短さまざまの句を一定の詩的律動なしに、次々にたたみかけるように積み重ね、句末の韻だけできりっとしめくくって行く実に珍しい発想技術である。著しく調べの高い語句の大小が打ち寄せる大波小波のようにたたみかけ、それを繰り返し繰り返し同じ響きの脚韻で区切って行くと、言葉の流れには異常な緊張がみなぎって、これはもう言葉そのものが一種の陶酔である。・・・マホメットに乗り移った何者かの語る言葉なのである。その「何者か」の名をアッラーという。唯一にして至高なる神の謂(い)いである。
最初の頃は啓示は一切向うまかせ、つまり受動的で、何時、何処で神が乗り移って語り始めるかわからなかったのが、いつの間にか今度はマホメットの方が主体的に動くようになり、何か重大な問題を提起しさえすれば、必ずそれに応じて神の「お答え」が下されるということになって来たのである。この傾向はマホメットの予言者活動の後半期、つまり彼がメッカ市を去ってメディナ市に移住してから益々増大の一路を辿(たど)った。
ある偶然の事情で現行「コーラン」では時期的に後のものほど前に並べるような特殊な編集方針をとっているので、読者としては頁を繰るにつれて次第次第に初期の啓示に向って年代を遡行(そこう)して行くことになるのである。
さて、以上が井筒さんによる「コーラン(上)」の解説ですが、ここでイスラームと言う言葉の字義について「コーラン(上)」本編から抜き出して置きましょう。
アッラーの御目よりすれば、真の宗教はただ一つイスラーム(神に対する絶対無条件的服従を意味する)あるのみ。
「お前たち、すべてを神様におまかせしたか」と問うて見よ。それでもしすべてをおまかせしたというなら、もうそれだけでその人たちは立派に信仰の道に入っている(すべてを神の意志にまかせ切ってしまうこと、それをアラビア語ではイスラームという。そしてこれが直ちに回教の原名である)。